仲間を殺すな

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内と外で同じことを書いているが、確か宮台真司が「なぜ人を殺してはいけないのか」という中学生的ながら普遍的な問いに対し、「人を殺してはいけないなどという法はない、『仲間を殺すな』という法がある」と指摘している。これは至言であって、「仲間を殺すな」はとてもとても深くわたしたちの中に埋め込まれている。
時々、猫とウサギなど、自然界では補色関係にある動物同士が仲良く暮らしている動画があるが、あれも飼育環境という特殊な状況で、別種ながら「仲間」と認識した結果だろう。そもそも「仲間」とは「同種」という意味ではない。大抵は「小さい時から一緒にいたヤツら」が仲間だが、とにかく何らかの形で仲間としてマークされたものが仲間、というだけだ。犬も猫もヒトも、ばったり出会った対象の遺伝子を検査して「同種」認定などしていない。いくつかの断片的なコードから判断しているだけだろう。おおよそ、「仲間」「敵対者(大抵は同種同性)」「食べ物」「天敵」「どうでもいいもの」の五種類くらいに分類しているのではないだろうか。小さい時から猫缶だけ食べてきた猫なら、一緒に育ったウサギを「食べ物」よりは「仲間」と判断するだろう。「本能」が勝って食べてしまう、などとも言うが、その「本能」というのは、上の断片的なコードから五種類に分類する仕掛け自体だ。具体的にどれをどう分類するかは環境や育ち方によって変わるだろう。
ヒトにおいても「仲間」は最初から抽象的で、家族兄弟親戚関係を基礎とし、どこまでも家族的な解釈の代理(転移)として捉えてしまう。盃を交わせば「義兄弟」だし、「仲間」概念が拡張されネイション=領域国民国家がその概念を吸い上げる時にも「母国」と言う。父権国家が一家を統べるかもしれない。それがどんどん拡張されて、「人類皆兄弟」まで行く。すると「仲間を殺すな」が「人間を殺すな」へと変換されるわけだが、「人でなし」と認められる者がいれば、殺して構わない。遺伝子がどうあろうと、分類が「仲間」から「敵対者」へとシフトすれば、殺すことは正義になる。
問題はもちろん、この「仲間」という抽象概念が具体的に持つ姿が、ヒトの言語世界においては高度に複雑化し、時代や地域、個々人においても少しずつズレているということだろう。「人類皆兄弟」は極めて抽象度が高いため、油断すると人はすぐ先祖返りして、国家とか地元とかの水準へと戻る。別に戻ることが悪いわけではないが、「皆兄弟」派と「地元」派では「仲間」の線引きが違うから齟齬が生まれる。
また、例えばある集団における「敵対者」のグループであっても、その敵対グループ内で仲間のために尽くし敵を殺す者がいれば、わたしたちは「敵ながらアッパレ」と判断することができる。そのアッパレな敵が殺しているのが自分の仲間であったとしても、敵方を裏切ってこちらの味方へと寝返る者よりは「信頼できる」という感覚がある。つまり「仲間」概念をメタ的に考え、「彼にとっての仲間(=わたしの敵)を大切にする」という見方ができる。もちろん、すべての者がそう考えるわけではないから、ここでも「敵ながらアッパレ」派と「敵を褒めるとは何事か」派の相克が生まれる。
そして人類最初の罪としての兄弟殺しのように、わたしたちにはどこか「仲間なんていない」という判断の可能性が潜んでいる。たぶん、ここは言語的な領域で、「仲間なんていない」と嘯く主体は他者の呼びかけにより初めて成立するものだから、既にして間主観的であり社会的である。「仲間なんていない」は、仲間がいないところからは決して出てこない。わたしがわたしであると思うわたし、ナルシシズム的なわたしは、それ以前に何者かの対象であり、最初から対象として愛されている。その愛が(例えば肛門的強迫により)うまく排出されないと、「仲間なんていない」という自己愛的物語が生まれる。
ここから何かの結論を導こうというのではない。わたしたちを統べるコードがとても単純なのだとしても、そこへの還元よりはそれが既に齎している制御不能な(多様性というよりはむしろ)乱雑さにこそ、世界の実相がある。とはいえ言語は常に、世界から遠ざかり還元的に働こうとするのだが。



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