内と外

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 左派と右派をいかに定義づけるか、という議論は延々と繰り返され、まさにそれ自体が一つの経済を成しているのだが、狭義の政治的文脈を離れてより抽象度の高い定式化を考えると、主知主義的な左派に対して主情的な右派、なんらかの理想、「良きもの」を未来に据える左派に対して過去に据える右派(と考えるなら、クレッチマー的には左派は「分裂気質」の痩せ型、右派は「循環気質」の肥満型となるのだろう)といったものが聞かれる。右派は内と外でものを考えるが、左派は普遍主義的であるとも言える。
 最後の点について言えば、近代的枠組みでの左右という以前に、人は基本的に内と外で考えるもので、そもそもが生き物には内と外、あるいは遠近という枠組みが備えられている。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」という(中学生的な)問いに対して確か宮台真司が「人を殺してはいけないなどという法はない、味方を殺してはいけないという法があるだけだ」と語っていたが(うろ覚えですいません)、至言であろう。味方とは「内」のもので、その「内」を漸次的に拡張した末に「人類」のような抽象度の高い普遍概念が現れる。そこで初めて「人を殺してはいけない」という定式化が成り立つのであって、「殺人」という概念が最初にあるわけではない。「内と外」の枠組みは「ヒト」に先立つ。
 問題はもちろん、その内と外の線引がどこにあるのか、だ。これは時代状況や社会階層、さらに個々人や個別的な環境によっても変化するし、また一人の人間でも社会的ペルソナによって分水嶺を移動させる。「外」と認定されてしまえば即ち敵ではあるが、永久の敵ではなく、場合により味方にもなる。そのあわいの流動性により、商業が成り立ち、交通が行われる。「味方を殺してはいけない」という法が極めて根深いにせよ、「内」は「外」あっての「内」であり、「内」それ自体のみで生きるものではない。(禁じられた)交通可能性が「内」を成り立たせる。
 そうした意味では、(右派的に)「内と外」を最初に立てるのはある意味素直というか、直截的ではある。普遍的視座、絶対的一者という概念は、理性によって打ち立てられるし、ある枠組みにそって演算を進めていけば必然的に導かれるものではあるものの、象徴的次元に位置するものであって、日常的な想像的地平において当たり前に目に見えるものではない。そして「一」なる普遍と言ったところで、それが真に象徴的な「一」なのか、「内」を拡張しただけのものなのか、必ずしも判然としない。まさにその曖昧としたところにそ、普遍概念の交通性、つまり象徴的なものへの通路としての機能があるだろう。左派的なエロティシズムは、分裂的な「なにかが起こりそうな感じ」と同源である。
 それが象徴的なものであれ、想像的な「内」の拡張概念に過ぎないのであれ、内外の壁を取り払い遠く押しのけることは人々の間を和する。わたしたちの(物理的な意味での)交通手段が発達し、情報伝達が加速度的に便利を得て、兵器の射程が伸びるに連れ、未来志向の普遍性を急ぎ推し進める必要があった。そうでなければ、わたしたちの間は一触即発となってしまうからだ。結果、人類史的に受け継いできた古典的価値観との連続性(兵站)を十分に確保する前に、「内」の強引なまでの拡張が為された。グローバリズムとは、一面にはそういうことだろう。
 しかし一方、「内と外」は外の排除ばかりを意味するわけではなく、「内」への甘ったるい慈愛をも担保している。なんであれ「内」のものを殺してはならないし、普遍的な法や論理がどうあれ、「内」に対しては徹底した保護を貫かなければならない。人類史のほとんどにおいて、この「法」こそが、象徴的普遍的な「法」より早くかつ強く機能してきた。この「身びいき」があってこそ、カウンターとしての普遍概念が遠慮なく伸長できたとも言えるだろう。
 今日(多分に誤って)右傾化と言われているものは、内に対する慈愛を要求する声ではないのだろうか。排外的な姿勢は甘えの裏返しだろうが、甘えを甘えとして正しく機能させることを拒否してきたのは左派的な理性に他ならない。そして筋道の上では普遍概念の側につくものが常に「正しい」のだが、わたしたちは正しいために存在しているわけではない。正しさに先立って存在し、その存在はプリミティヴで「枯れた」法にのみ従う。
 ここからなにを結論しようというのでもないが、たぶん、「甘え上手」であることが生き残るための秘訣なのだろう。もちろん、生き残れば良いというものでもない。命も健康も大切ではあるが、一番大切とは限らない。戦って靖国に祀ってもらうのも一つの救済だろう。そういう甘え方もあるし、ずっと昔からある。



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