誰ももう、狙いなどつけられないのだ

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「自分を受け入れる」と人は一気に醜くなる。
「わからないのは説明が悪いから」と厚顔無恥にのたまう。
品位と教養とは、実際上それらがあるかないかという以前に、それらが期待される場に自らを位置づける、ということにおいて機能する。恥じらいというのはそういうことだ。
あることを知らなくても仕方がないが、知らないことに恥じらいがあれば、己を磨くなり、節度をもって振る舞うなり、関係性が成り立つ。それがなければ「ボクはボクでいいんだ!」で終わりだ。いいわけがない。

いよいよもって選挙も茶番じみてきた。大衆を慰撫する装置を大衆の無恥が越えてきたということだ。
N国の伸長など、「自転車置き場の色問題」が最悪の形で「唯一の政治参加装置」という欺瞞に流れ込んでいるに過ぎない。
もう誰も喧嘩しないが、いもしない敵に乱射する弾丸が人の肉を裂く。誰もが「流れ弾」だけを気にしている。
技術に支えられ、目の届く範囲に人の数が多くなりすぎたのかもしれない。
誰ももう、狙いなどつけられないのだ。



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