社会的文脈から作品にアクチュアリティを持たせたものとして、何らかの「マイノリティ」を素材とした写真等がある。当然評価の高いものも低いものもあるが、ともかくそうしたややジャーナリズム的な文脈を織り交ぜるものは、構造上批評の対象として成立する。また、こうした対象として注目されることで、社会的「理解」が深まる等の、ポジティヴな効果もあるのだろう。
一方、これも言い尽くされはしていることだが、ただそれだけの切り口であれば「対象」としてまなざされる者とファインダーの後ろ(あるいは安全なギャラリー)に隠れ鑑賞する者、という非対称な関係には、セクシュアリティの問題にも連なる「植民地的」暴力性がある。もちろん、優れた作り手はこの暴力性を十全に引き受け、加害者意識と共に、あるいはまた別の関係性の中で(例えば作家本人がコミュニティの内側にいたり、深く交わっていたり)制作を行っているはずだ。しかし受け手の多くは、特段の意識もなく、安全圏から「対象」を鑑賞しているに過ぎないだろう。
これも色々な場所で言い尽くしている(言い尽くされている)ことだが、「理解」など所詮は切り取った都合の良いストーリーに乗せて了解してしまうだけの話で、「対象」として補足されたかに見えるものは、どう転んだところでピンナップの慰み者でしかない。
自分自身にもそうした「対象」と成り得る要素があるが、それを誰かに素材として扱われたいとか、あるいはまた「理解」されたいなどとは微塵も思わない。そんな茶番に付き合うくらいなら、道でいきなり殴られる方が断然マシだ。
端的に「そっとして」おいてもらいたいし、この世の中にあるほとんどのものは、「そっとして」おかれることでかろうじて命脈を保っている。ジェンガも抜かなければスリルはないが、崩れはしない。
ジャーナリズム的な視点を入れた作品を目にするたびに、いつももやもやと不快なものを感じる。もちろんこの不快さも込みで作品であろうし、少なくとも不快にはさせたのだから一定程度の成功を収めているのだろうが、もしそうした作品が加害者意識の引き受けもない露悪趣味で作られているのなら、もっと「枯れた」暴力をもって報復するのも、また別種の作品だろう。実際、諸-作品(諸-暴力)の間に、無前提に仲裁する「他者の他者」的な外部など存在しない。
自分もまた同様の暴力を行使しているのだろうが、行使される暴力よりも速く長い射程で、暴力的な意識を持てるかどうかが勝負の分かれ目である。
舞踏家の原田伸雄氏が「テロの代わりに芝居をするんじゃない、これ自体がテロなんだよ」という内容を発言しているが、この速度がないならただの出歯亀根性、モデル撮影会で連射しているオッサンと変わらない。
もちろんテロリストなら、どこか遠くからトマホークミサイルが飛んできて、それと気づく間もなく木っ端微塵にされることもあるだろう。「受け手」も諸共だ。「カメラ小僧」は標的にされないが、死なないのは死体だけである。