問わない人々の知

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

なんであれ知を内部に、つまり直観や感覚、あるいは大衆的な受容の様相に結び付けることは運動を生成せず、ゆえにそのような「知」は、知の様相を持ちながらその実「主人性」、すなわち権威関係以外のなにでもなくなるが(だから「開かれたアート」的な文脈はそれ以上どこにもたどり着かない)、その上で、何者かが知を握っているとして、そこへのアプローチの仕方にはいくつかの質的に異なるヴァリアントがあり、なおかつ、相互に政治的・時代的に相克する関係がある。わたしたちは近代人として既に疎外されているが(知るべきすべてを知っていない者として存在する)、その疎外を回復すべき方向、対象をどこに見出すか、という違いである。
もちろん、疎外されていない、と主張することは可能で、一つはナイーヴな反知性主義としての大衆主義(既にわたしたちは知っている)、今一つは、知を基礎づける唯一のシニフィアンを象徴の体系から排除した上で物質的に身にまとう統合失調症親和的な態度、つまり「わたしだけが知っている」である。とはいえ、後者はいずれ「神に見捨てられる」より道がなく、何らかの形で言語経済の内部に「知っているもの」を投げ込むより他に、一般的には、生きる方法がない。例えばそれは、(わたしが「未だ」その中にはいない)特定のギルドであったり、不可知論的な意味での神である。だから通常は、その回答なき神に対して「アタリ」が出るまで問い続けることになるのだが、一方で、少しも神の方を見ずに、「今はっきりとわかっていること」だけをなぞり続ける、というアプローチがあり、近年力を増しているように見える。これはデータベース的な「総当たり」攻撃とでも呼ぶべきアプローチで、彼らはそもそも誰かが「アタリ」判定を出してくれることを待たない。何も待たずに、ただただ表層の、「既に手に入れたピース」を組み合わせて提示し続ける。結果、知へと到達するかもしれないし、しないかもしれない。彼らはそこにも関心がないように見える。
このような態度は、「わたしだけが知っている」より遥かに価値転倒的で、「体制」にとっては危険であり、エリート主義と大衆主義の対立という(人々を安心させる)偽の構図を根こそぎ反故にしかねないパラダイムシフトだろう。「大きな狂気」自体が近代のプログラムの一部にして陰ながら基底を支えてきたものが、昆虫的蚕食により瓦解しつつある局面にわたしたちは立ち会っているのかもしれない。
しかも、「総当たり」攻撃者の多くは大衆に身を隠し、まさに集団で移動する飛蝗のように、名前を持たない。「旧時代」の人間にとってはここに大きな陥穽があり、つまり一見大衆主義という旧来の物語に収まって見えるものが、質的にまったく異なる段階へと移行している可能性がある。たぶん、「エリート」の側も、「大衆」の側も、等しく騙されている。
古い人間にとってのわずかな希望としては、「総当たり」にしても、そこには個の水準におけるウィットやユーモアがあり、例えば誰もがキャロルやウルフソンのように「病的表層性」を徹底できるわけではない。依然として「価値ある狂気」は社会の周縁にとどまり続けている。
依然「権力」は、彼らを殺さず、かといって真ん中まで自由に出てはこれない程度に「抑圧」しているが、あと二度ほども世代交代を経たら、わたしたちの知っている人間は地上から一掃されるか、あるいは奥地へと押し込まれているのかもしれない。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする