死後の世界とはこの世界である

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磯崎憲一郎が「この世界こそ自分の死後の世界である」といった内容の話をしているが、それは例えば、自分の死後も続くこの世界(まだ見ぬ未来)といった想像に対置する形での発言である。
信仰の多くの文脈において「死後に徳を積む」といった発想があり、主の報奨を得るべく現世(ドゥンヤー、下の方の世界)で善行に励む人々が数多いが、よくよく考えれば当たり前の話で、まさに「この世界」こそが「死後の世界」なのだ。それは、過去現在未来という直線があり、その小さな一部に自分の生がある、という、少なからぬ人々が慣れ親しんだモデルからは導出されない。
言うまでもなく、この直線的モデルを全否定しようというのではなく、ある種の文脈においては大いに有効なわけだが、しかし、その文脈が文脈のすべてではない、ということを多くの人々が失念している。それは、世界ということで単一的で不動な何かを想像していしまうナイーヴさであり、自分と世界を対置してしまう傲慢さでもある。
アラビア語における基本的な時制は完了と未完了のみで、例えば未来への言及は枝葉の工夫で表現されるが、運命の日(最後の審判)後の描写が完了で行われているなど、完了未完了は単なる過去と現在ではない。過去現在未来という時制はあるが、完了未完了という時制があり、その他の時制もあるだろう。
わたしたちが有限の生を生き、その過去と未来に茫漠たる時間が流れる、という図式は一つの見方としてあるし、またわたしたちが慣れ親しんでもいるが、図式のすべてではないし、まして「世界」でもない。
超未来への想像力を持たないと即座に「後は野となれ山となれ」とはならない。そういう極端な人も存在するが、人の生の標準的な姿だと考えるとロジックに溺れている。
もちろん、多くの人々は現世的意味での自分の死後、つまり「残された家族」などを考えるが、その「家族」とは今この世界にいる人々で、彼らは別に超未来へと想像を羽ばたかせているのではない。そんな想像力は要らないし、まさにこの世界に尽くすことが、主の報奨に預かることであり、また「残された家族」を想うことでもある。
死後の世界とはこの世界である。



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