1943年、IBMのCEOトーマス・ワトソンは、楽観的にこう言った。「世界市場は五台のコンピュータを持つことができるだろう」。
1895年、アインシュタインの教師は彼の父親に言った。「残念ながら、教育を受けても無駄です、成功しないでしょう」。
1974年、1979年から1990年までイギリス首相となるマーガレット・サッチャーは言った。「女性が首相になるにはまだ時間がかかり、わたしの生きているうちにはないでしょう」。
1933年、ボーイング社のあるエンジニアは、この年に製造された十人乗りの飛行機ボーイング247に言及して言った。「これより大きな飛行機は決して作られないだろう」。
1962年、レコード会社デッカ・レコードは、ビートルズを不採用にして言った。「彼の音楽は気に入らないし、こういうギター音楽はもう終わってるだろう」。
発見された1872年のウェスタン・ユニオン内部文書にはこうあった。「この電話というものについて真摯に検討したが、通信手段として非常に問題が多い。この機械には価値がないだろう」。
1927年、ワーナー・ブラザーズ創設者の一人H.ワーナーは(もちろん無声映画の時代に)こう発言した。「俳優が喋っている声なんて誰が聞きたいんだ」。
電球の発明者であるトーマス・エジソンは、教師から何も学ぶことなどできないと言われて放校になり、母親が勉強を教えた。
ウォルト・ディズニーは、勤めていた新聞社を解雇された時、このように言われた。「想像力がなく、アイデアを生み出すことができない」。
もっと続けようか。いや、もう十分だろう。
人は実にしばしば間違える。よく知っていても、賢くても、学者であったとしても。善意からであっても間違える。一人で出した結論ではなかったとしても、あるいは会議の結論であっても、間違える。
より堅牢な地盤を得るために、容易にするために、結論をより良い選択とするために、人間は会議というこの考えを発明した。一人で結論を出すのではなく、何についてであれ、複数の専門家がとりかかる。これはもちろん、それぞれが一人で結論を出すよりは、間違えの確率を下げるし、倫理的腐敗の影響を減じ、決定の信頼度を上げる。これは実際、良い考えだ。だがそれも間違えの率を減らすというだけで、なくす訳ではない。それなのになぜ、多くの人たちが「会議」の言ったことが絶対で、これより良いものなどないかのように扱うのだろう。「会議」が言ったから、で終わりなのか。
これはもちろん、会議と称されているものに限った話ではない。指名された、あるいは志願した人々による集まりや、組織や議会、大きいものであれ小さいものであれ、重要なものであれそうでないものであれ、そうした民主的な集まりのことだ。
最初にあげた数々の例のようなことは、何千回、何百万回と世の中で起こってきた。どうして人々は、常に間違えは起こる、ということを忘れてしまうのだろう。どうして彼らの一部たる「人々」の言葉を(たとえ高い立場の人たちであっても)、彼らが真理を知っているかのように扱うのだろう。どうして人間は、自分自身が作り出したものを、絶対的な真理、唯一の真理のように扱うのだろう。こうした考えを反証する、多くの十分な証左があるというのに。
この件を別の面から見てみよう。例えば僕が、映画監督だとして、世界で一番重要な映画祭の委員会で、今年の最優秀監督賞に選ばれたとしよう。もちろん、この監督が喜ぶのは尤もだし、成功したと感じるのも正当だ。しかし本当に、その年の絶対的に最高の映画を作ったと考えるべきだろうか。あるいは、この賞はその時その委員会に、エントリーされた映画の中から選ばれたというだけだと考えた方が良いだろうか。僕としては、後者の方が常に良いと思っている。こちらの方が真っ当で正確で正しい受け止め方だろう。
もしこの監督が選ばれなくても、同じ事だ。これはそこにいる人達の意見であって、未来永劫有効なものではない。二人ほどメンバーが変わったら、大方結果も変わるだろう。彼の映画は、その人達のところ、その時には、賞に値しないとされたということだ。しかしそれは、絶対的に本当に値打ちがないということではない。
そもそも世の中には絶対などというものはないかもしれない。
もう少し遠くまで行ってみよう。人間は世界中で、憲法や法律を作っている。状況をよく研究し、何が一番良いやり方か「自分の考える限りで」勘案し、起草者たちは紙の上に秩序を作る。それから奇妙なことが起こる。この紙を神聖化し、そこに物事が詰まっているかのように扱うのだ。非常に多くの場面で、うまく行かないことや無知や不正、運営のまずさやその他色んな間違いについて「憲法にこうあるから、法律に書いてあるから」と言って弁護しているのを見る。これは奇妙なことではないか。法律や憲法というのは、その起草者が知る限りの考えによって作られていて、他のことは知らないのではないか(周りの状況と結びついている他のあらゆることと同様に)。何がこの絶対視・神聖視をもたらしているのか。
憲法や法律は、そもそも人々とその生命、財産、権利を保護するためにあるのだ。そのために、僕たち人間が、いかなる選択がかつて可能で、「自分たちの考える限りにおいて」どういう扱いが「可能」であるか、そのレファレンスとして決定したものだ。それに固執して神聖化するためではない。それを用いることで、生命と自由、権利と財産の保護をより確かにするためだ。
百年前に生きていた憲法や法律の起草者たちが、現代に生きている法律学者や憲法起草者たちよりものごとをよく理解しているなどと、誰が言ったのだ。世界のどの国でも、法律や憲法が百年とかそれ以上も使われているのはどうしてだ。どういうことだ。この過去の盲信はどこから来ていて、どういう得があって、どういう要因によるものなのだ。
どうして世界の憲法や法律には、その最後に、ここに書かれたすべての条項は、例えば有効期限十年とする、と書かれていないのだ。有効期限が切れたら、次の人々がもう一度考え直して、現実に起きた変化につて研究し、また新しい(それもまた彼らの考えの限りにおいて)より良く現実に適応できると思われる法律を作れば良いえはないか。特に変更の必要なし、と思うなら、変えなければいい。新しい日付で新しい法律を「従来通りで良しとする」と但し書きをつけてつくり、それからまた十年経ったら、また法律や憲法の立法者たちが、新たな修正が必要ないか考えるのだ。
これほどのスピードで変化し、毎日新しいことの起こる世界では、「生命そのもの、自由そのもの、権利そのもの」を守る法律や憲法の根底は、更新と変化、進歩でなければならない。停滞や遅延、軽視や屈従ではない。
実際、理論的には法律や憲法は修正可能だ。問題はその手続きだ。この修正手続きは、いつも必要な目的のすべては果たせない。憲法裁判所は、他の条項との矛盾がない限り憲法を修正しないし、直接的な害がない限り誰も条項に対して訴訟を起こせない。そうしたことすべてを分かっていないといけないし、憲法裁判所を相手にできる弁護士もいないといけない。必要なものが沢山ある。
憲法を修正できるのは人民議会だけだ。すると、修正は与党と連動していないといけないし、立法委員会やら投票やら長々とした大量の仕事がある。結果として、法律や憲法の誤りを正すのはほとんど不可能になっている。そんな訳で、そういう問題が百年以上も生き延びていたりするのだ。
しかしもしこうしたステップがすべて存在せず、法律学者の仕事が常に、憲法や法律を過去ではなく現在の現実に結びつけることで、いつでも必要な修正を加えられるよう扉が開かれていたならば、まったく違う世界になっていただろう。
とても簡単な例として、エジプトの賃貸契約法がある1。法律は以前のまま変わらず、変わらず、変わらず、とうとう百万ギニーの家を持っていても月に6ギニーしか取れないところまで来た。修正しようとしたら、とてつもない努力が必要だったからだ。しかしもし法律が、五年ごととか十年後とに見直されていたらどうだったろう。その間、何十年にもわたって現実は動き続けてたのだ。この例はもう沢山だろう、これ以上詳しく語るまい。
何か特定のテーマに関する詳細はおいておくとして、一般的に言って、人間は常に間違える。そういうことが沢山ある。自分では正しいと思っていても、時が経ち状況が変わると、間違っていたと分かったりする。あるいは、後から来た人間が間違っていたと気付く。それだけではない。人間は学ぶことができるし、先人の経験から学び、それに自分の経験を付け加え、より良く知ることができる。単純な話、より多くを見ている訳で、以前に行われたことを評価するチャンスもあるからだ。歴史による評価は、考え方についてだけの話ではない。時の流れがこの考えに与えた影響も知ることができる。単に予想するのではなく。
必要なのは、こうしたことすべてをよく考えることだ。そして、決して神聖化しないことだ、本当に神聖なもの以外は。
狂気とは、同じやり方をただ繰り返しながら、違う結果を期待することだ。
アルバート・アインシュタイン
- エジプトの賃貸物件には、「新賃貸」と「旧賃貸」と呼ばれる二種類の方式があり、「新賃貸」は数年単位で更新される通常の賃貸契約だが、旧来の「旧賃貸」は永代貸借契約で、賃料も更新できない。そのため、市街地の真ん中にある古いアパートなどが、インフレによって一人分の夕食代のような家賃で未だに貸し出されているケースがある [↩]