早合点されプイと行ってしまわれても、また哀れ

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チョウチョのことを書いていて、ものを作る系の営みはつくづく寂しいものだと思った。
人は孤独には勝てないので、ものを作っていても飲み会をしたくなるのだろう。しかし飲み会も人との交わりなので、やっぱり寂しい。自分の場合、人のいるその果てしない寂しさを埋めたくて、武術を学んでいるのだと思う。
お世話になっている精神科医の先生は、東大文学部を卒業してから医学部に入りなおした奇人のせいか、わたしとはかなり話が合うのだけど、この先生は人との関係に極力期待しない生き方をされていて、話し相手は古典だけだという。その感じはとてもよくわかる。
武術というのは昔の人の手紙を読むのに似ていて、ずっと稽古していると会ったこともない大昔の人と少し気持ちが通じる感じがある。手紙をちゃんと読むには今生きている人のお世話にならないといけないのだけれど、それは古典を読むにも教育が要るのに似ている。
先生は先生であって友達ではない。先生/生徒という関係は、人であって人でないものになることで、そうして歴史に身を預ける過程でほんの少し人が入り込む、それくらいが真っ当な付き合いではないかと思う。
「友達を大切にしましょう」と小学校でも教わるし、子ども的な文化がどんどん世界を侵食しているので、なんとなく友達関係的なものが人との関係の基本であるかのような物語にわたしたちは取り込まれつつあるけれど、自分はあまり信じていない。
友達がどうでもいいという意味ではなくて、ただ関係の基本構造に据えるものではなくて、隅っこの余白みたいな遊び部分にあるから良いのだと思っている。遊びは楽しい。しかし遊びが主では真っ当な生き方ではないだろう。
人であることが正面に表れては、歴史に対して不誠実で、世界や神様に対して不義理になる。脇の下で触れ合うくらいがちょうど良い。
共時的に切り取ったスライドグラスみたいな世界は人と人でできているように見えるけれど、浮世の断片でしかなくて、主に置いたなら嘘になる。
返事の来ない人と話をしなければ寂しすぎると思う。

と、つらつらと書いて一晩寝て起きると、返事の来ない人と話をするのは、そもそも人の始まりの有り様ではないか、と今更ながら思い出した。
わたしたちは赤ちゃんを育てる時、「ハイハイ、お腹が空いたのね」「○○ちゃんはほんとにクマちゃんが好きねぇ」などと話しかける。赤ん坊はお腹が空いたともクマちゃんが好きとも言っていないのに、勝手に決められている。決められて話しかけられて、ずっとずっと後になってから「あの時わたしはお腹が空いていたのだ」と遡及的に措定される、そういうものがわたしたちである。
「赤ん坊に話しかけたところで言葉がわからないのだから無駄である」と、まったく正しい信念に基づいて大人たちが一切話しかけなかったら、多分子どもは言葉を話さないし、彼彼女らは生き物としてわたしたちとは違った存在になるだろう。
赤ん坊どころか、犬猫にだって話しかける。わたしたちは彼彼女らが返事をしないのを知っているし、むしろ返事をされたらびっくりする。しかしわたしたちは話しかけるのをやめられない。犬猫ばかりか草花やバスに話しかける人だっている。
そう言うと情緒的なものとして了解されてしまいそうで、実際、一晩寝て起きて続きを綴っているせいか、上の下りは少しまとまりが良すぎる。言いたいことが言えた時、わたしたちは大抵的を外している。
「ぴったりと的を外し」ついでに言えば、先生/生徒という関係にも似たことが言えて、生徒は先生の言うことを了解できてしまってはいけない。生徒は未熟だから生徒なのであり、その時点での自分の了見できれいに理解してしまっては、先生の見ている風景にはたどり着けない。だから先生は頭ごなしに指導して良いし、生徒は黙って従うのが一番学びになる。
というと、昭和のスパルタ教育のようで、昨今のご時世では怒られるのだが、この無茶苦茶な関係を成り立たせている信頼というものが、教える/学ぶの基底にある。もう信頼がなくなってしまった、あるいは、語られざる信頼を測るほどにわたしたちの知恵が及ばないがゆえに、契約とか友達とかそういう関係で代わりをしているのだろうし、それはそれで緊急避難として仕方がないことだけれど、肝心なところを言葉にできていない。
しかし一方で、言葉にできなくなったのは幸いかとも思う。
丁度、言いたいことを言えてしまうことの白々しさを反転したものとして、そう思う。
それはまた、仲間といることの寂しさにも似ているが、蔭とか伝わらなさが残らないといけない、という話とは違う。これもまた言えてしまい過ぎる言い方をするなら、ナイーヴな否定神学になってしまう。
言えていないことは一つならず無数にあり、しかもそれらは相互にさほどの関係がない。少しあるけれど、あまりない。
話しかけられた赤ん坊であったことは、そういう繋がりの脆さであって、大人になってから父母に向き合ったところで、「あの時伝えられなかったこと」が十全に言葉にされ伝わることはない。そればかりか、親というのは大抵話の通じないものだ。ぼんやりしていると、こちらが大人になったころには父母は子どもになっている。
犬猫だって、こちらの言葉を一から十まで理解しないかというと、「散歩」とか「お風呂」くらいは反応する。そんな風に一知半解してしまうところに、寄る辺なさがある。
早合点されプイと行ってしまわれても、また哀れかと思う。



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