非常に大雑把に言うと、フラットなものに対抗しなければならない、という意識があるわけです。フラット、見通しの良いもの、風通しの良いもの。ベタなことを言えば「管理社会」ということで、そこら中に監視カメラがあって、あらゆるモノは正しく品質管理され、お上品でジェンダーフリーでバリアフリーで「不正」の許されない世界ということです。「ファスト風土」みたいな風景と言っても良いです。恐ろしいことに、それは「努力の認められる世界」でもあります。「頑張ったら頑張っただけ」という世の中で、逆に言えばうまくいかないのは頑張らなかったせいということになります。
このフラットさというのは、閉じたロジックの中の透明性ということで、世界が一つの系の中に収まるということです。一つのデータベースの中に物事収まっていればどこにでもパッと手が伸ばせて便利なわけです。そしてロジックの中の一つ一つの項目は透過性が高くなり、ひっかかりがなくなる。そこの「抵抗」というのは、文字通り邪魔なものでしかなくて、なくなればなくなるほど世の中透明になります。
ただ一方で、そういう透明なロジックを成り立たせているそもそもの基盤、そこにエネルギーを供給しているものというのは、系の中にはありません。演算しているCPUをトンカチで殴ったら壊れるように、そういうものは外にあって、この外部が内部にエネルギーを備給しています。リビドーです。ですが、内部のロジックからすれば外部とは「無きもの」であって、ロジックをいくら延長しても手は届きません。こういう言い方は否定神学的というか、神秘主義になりますが、フラットな世界は不可視化された外部からのリビドー備給によって成立しています。ちなみに、こういう外部というものが、目に見える形で内部に見いだせるのだ、みたいな発想がオカルティズムでしょう。
で、問題はここからなのですが、こういう問題意識を携えて「アンチ・グローバリズム!」とか言ってみたところで、大多数の人には支持はされないのです。皆んなグローバリズムが大好きなのです。なぜならミクロな視点で見れば、フラットな世界には良いところが沢山あるからです。見通しが良い不正の許されない世界、「頑張ったら頑張っただけ」な世界、大変結構じゃないですか。わたしだって、そういうものの恩恵を沢山受けていますし、できることなら余計なことは考えずに「透明な一項」でやっていきたいと思うくらいです。人が生きている世界というのは本当はこの一項の「抵抗」そのものなのですが、そんなところにこだわって抵抗してみたところで、労働者人民は立ち上がったりしないし、むしろ石を投げられるのが関の山です。段差とか効率の悪さ話の通じなさとか引っかかりとか、そういう抵抗こそが本当は生きているということで、効率化やら構造改革なんかやったらそれこそデフレがひどくなるばかりなのですが、個々のところを見ればやっぱり段差がない方がいいし、カッパライがいない方がいいし、そういうキレイで上品な世界が皆んな大好きなのです。
皆んなグローバリズムがだーい好き、100円ショップがだーい好きなのです。モノが安くなって結構じゃない。むしろ労働者人民の味方、ってなもんです。わたしも好きです、ダイソー。
外山恒一さんが昔、校門圧死事件の時にビラ配って抗議していたら、当のその学校の生徒にさんざんなじられて追い出された、というお話をされていますが、そういうことです。大衆は味方などではないのです。
市民派左翼みたいな人だったら、「いや、良い抵抗と悪い抵抗がある」ということを言うと思うのですが、はっきり言ってそんなものは改革レベルで、何が良い抵抗で何が悪い抵抗なのかなんてことは突き詰めたらよくわからないのです。「良い抵抗と悪い抵抗がある」みたいなのは、誠にお上品すぎて、それ自体ですでに良い悪いが見分けられるフラットな世界の側からのお話でしかないのです。本当のところは、良いか悪いか、シュートかブックか、ガチかフェイクか、そんなものは分からんのです。境目なんかないんですよ。全部プロレスなんです。もちろん、それをわかった上で改革として一応の線を(嘘と知りつつ)引く、ということなんでしょうけれど、その撤退戦ぶりに脱力感しか覚えないのです。いや、そういう改革が一切無効というのじゃありませんよ。一定の範囲で機能するでしょうし、世の中ちょっと良くなるかもしれません。でもフラットなものへの抵抗というのは、そういうお話じゃないのです。むしろ「改革なんかしかできない」という絶望の方に、そのリアリティがあるものです。撤退戦を前にしたテンションの下がり具合、そっちの方がリアルなのです。
この世界は資本主義が煮詰まって出来上がったもので、この透明さというのはある意味非常に「共産主義的」なのです。昔のソ連だか今の北朝鮮みたいな半端モンの「共産主義」より余程できあがっていて、だから外山氏が「世界は右傾化しているのではなく左傾化している、実現しつつあるのはファシズムではなくスターリニズムである」というのは、非常に乱暴だけど極めて鋭いことを言っているわけです。そして皆んなスターリニズムが大好きなのです。
だから労働者人民と共に立ち上がろう、みたいな話は全然ダメで、大衆に語りかけたってムダなのです。わたしだって100円ショップがあった方が助かりますから。
それゆえに、抵抗は「民主主義的」であったりしてはダメで、ある種の「失敗」としてしか成り立たないのです。犯罪的と言ってもいい。ただ失敗と犯罪というのは実体が同じでも切り口は違います。犯罪者というのは悪いことをしたから悪い人なのですが、一方でそういうところに行かざるを得なかったという面もあって、誰しも運が悪ければ結果的に犯罪者になることはあり得ます。別に環境のせいとかそういう話ではありません。そんな話をすると、「どこまで環境で、どこから個人の責任か」みたいなお話になるのですが、そんなものはそれこそ「改革レベル」「良い抵抗と悪い抵抗」みたいなことでしかありません。そうではなく、運命のようなものです。運が悪いと犯罪者になるのです。だから無罪というのではありませんよ。その人は犯罪者なんだから有罪です。皆んなで棒で殴らないといけません。そこまで行って、失敗と犯罪というものが一つにつながります。その人は失敗者なのですが、同時に犯罪者です。二つが一つになる次元というのがあるのです。
抵抗は「悪いもの」です。もう、そうとしてしか内部のロジックの中ではあり得ないのです。サーバーの置かれている部屋の冷房がきいていないとマシンが落ちるでしょう。そういうのが外部です。ロジックの外にエアコンとか扇風機があります。そして部屋の温度とかケーブルをネズミがかじっているかいないかというお話はロジックの外部にあるのであって、そういうのは「悪いもの」なのです。時々結果的に「良いもの」として機能することもありますが、いずれも「余計なもの」という意味ではやっぱり内部的には「悪いもの」です。
この「悪いもの」をわざとやったら犯罪者、うっかりやったら失敗者ですが、上でお話しました通り、両者が一つになる次元というのがあって、突き詰めてしまえばどっちも似たようなものです。ただ、「悪いことをしましょう!」といったら、これは犯罪の教唆ですが、失敗するかどうかは本人の預り知らないところです。失敗するのは、まぁ仕方ないですから。それは何かと言えば、運命です。神様の意志です。そういうものは、抵抗になり得ます。神様が抵抗します。
そして、フラットなものに対抗できるもの、生きているということがあり得るとしたら、それは「悪いもの」または失敗しかありません。革命はいつも「悪いもの」です。労働者人民が納得するような正義などではありません。問答無用でぶっ殺すような犯罪的なものなのです。
千坂恭二さんが物凄いことを仰っていて、例えば左翼は「日本は侵略しました、ごめんなさい」と言うし、右翼は「日本は侵略なんかしてない、謝ることなんかあるか」と言うとします。しかし彼の言っていることは、要するに「侵略した、それがどうかしたか」みたいなことなわけです。日本は神代以来の革命国家であり、革命は侵略なんだから、そういう「悪」を引き受けろ、というわけです。こういう考えは左翼の人からも右翼の人からも怒られると思いますし、大衆的支持などまったく得られないでしょう。でもそれでいいのです。そんなもの一ミリも期待していないでしょうし、もう最初から「悪いもの」なのですから、そこを突き抜けるしかないのです。ああいう人が本当の革命家なのだと思います。革命家は「悪い人」です。
これはイスラーム界隈の文脈で言ったらハサン中田先生みたいなもので、その対偶みたいなところに池内恵さんがいらっしゃると思うのですが、ハサン先生なんかは革命家なわけです。良い抵抗と悪い抵抗とか、改革とか、そんな発想は全然ないのです。だから「悪いもの」なのですが、ハサン先生のスジから言えばその悪いものが真理なのですから「それがどうかしたか」で突っ切るわけです。
わたし自身は革命家ではないし、そんな根性もないし、ダイソーも大好きなのですが、頭が悪いし色々失敗するのです。情緒不安定ですぐキレるし、全くスジは通っていないのですがお上品で見通しが良いマダムっぽいものを見るとイライラしてきて蹴飛ばしたくなるのです。訳のわからん馴れ馴れしいオッサンとか、単に見た目が気に食わないとかでも蹴飛ばしたくなりますが。そこに何の正義もありません。でも都合よく考えると、これも運命ですから、失敗なんじゃないでしょうかね。神様の思し召しで失敗したのです。違いますかね。違うでしょうね。わたしは大体間違っているので、違うんじゃないかと思います。そういう意味でも、やり損じたということでしょう。
ちょっと別の方向に話をもっていきますと、革命が「犯罪的」であったとして、犯罪は革命的なのでしょうか。普通に考えて、すべての犯罪が革命ということはないでしょうね。そこに思想があって、引き受ける覚悟があるのか、みたいなところで線が引かれるのかもしれません。千坂恭二さんもどこかでそんなことを言っていたような気がしますが、気のせいかもしれません。ただ、そういう線引きというのも曖昧なもので、その線というのは革命と犯罪を分かつ線というより、革命的に成功した犯罪と革命的に失敗した犯罪を分かつもので、そして失敗と犯罪というのも分けきれないものだとしたら、革命というのは失敗した運の悪い犯罪者を救う道とも言えます。そんなものは、これまた大衆には支持されません。わたしだって、訳の分からないのが暴れて能書きだけ垂れても納得はしないでしょう。でも一方で、抵抗というのはそういうところでしか成り立ちません。大体、加害者がいなければ犯罪はないのですから、加害者のケア的なところに向かわないとどうにもならないと思うのですが、これもまた改革レベル、社民的レベルの話なので、ここではどうでもいいです。
どっちに転んでも失敗者、犯罪者、という人はいて、あるいは今のところそこそこ誤魔化せていても失敗・犯罪的要素を秘めている人たちというのはそれなりにいるのです。「犯罪予備軍」という良い言葉がありますね。わたしなら「失敗予備軍」と言いたいですね。それで大勢の方が「失敗予備軍」にいるものだから、この人達は内心ビクビクしているわけです。いつ失敗するかわからないですから。それは「いつ犯罪者になるかわからない」ということとほとんどイコールでもあります。予備軍は非常に大きいですから、実は大衆というものと重なるのですが、だからといって、何度も言うように「いつ失敗するかわからないから失敗した時の方を考えよう」みたいな形で持って行っても、大方の人は味方にはなりません。なるとしても、非常に小さな改革レベルのお話です。普通は、いつ失敗するかわからないからこそ、失敗した人たちを寄ってたかってボコボコにするのです。まったく無自覚にやる人もいるし、内心「ごめん」と思いながら殴る人もいます。でも要するに、皆んなでボコボコにすることには変わりあません。そうしている間だけはまだ失敗していませんから。そこで殴らなければそれこそ失敗です。皆んな殴りますよ。スターリン万歳って言いながら。
それでどうするのか、どうしようもないのですが、どうしようもないならいっそ行く所まで行ってしまえば面白い気もしなくもないです。言葉狩りとかありますけど、もう言葉なんかどんどん狩りつくしちゃったらいいんじゃないですか。それで語る言葉がなくなってもザマアミロです。その時は大衆もろとも自爆ですよ。そういうのも面白いと思います。horizontally challengedとかガチで言ってみればいいんです。そうやって突き詰めると、逆にソ連芸術的な味わいが出て面白いかもしれませんよ。表現規制反対とかね、そういうピンポイントで自由とか言ってみたところで、それこそ改革レベルというか、そう言ってる当人たちが狭い範囲の「自分の好きな表現」を守りたいだけなんだから、どうにもなりませんよ。そこで「犯罪的」になれないなら、いっそ表現なんか片っ端から規制されたらいいじゃないですか。さぞかしキレイで清潔でお上品でフラットで見通しが良い世界が出来上がることでしょう。ザマアミロとしか思いませんよ。
ちょっと話がズレますけれど、ヨーロッパの町並みなんかはキレイだけど、日本はごちゃごちゃしていてなんでもテプラで貼るし、トイレに大量の注意書きがあるし、誠に美しくない、みたいなお話があります。これなんかも、もっと注意書きだらけにしたらいいんです。もう、耳なし芳一みたいにトイレ中びっしり「センサーに手をかざすと水が流れます」とか「これは非常ボタンです、緊急時以外に押さないで下さい」とか書けばいいんです。日本語だけだとネタが尽きる気がするので、英語中国語韓国語に加えて、ウルドゥー語とかソマリ語とか、もう全部びっしり書いたらどうですか。外国人にも優しいフラットなトイレ。素晴らしいですね。赤ちゃんのおむつも替えられます。
何度も言いますけれど、良い抵抗と悪い抵抗などというものはありません。抵抗は、全部悪いものです。
もちろん、わたしは良い人なので、悪いことはしませんよ。ただ頭だけちょっと悪いので、失敗することがあるだけです。そんな風に、神様の意志で段差で転んだりするしかない気がします。もちろん、段差があるのがいけないので、転んだ後はコンクリで埋めてバリアフリーです。わたしは良い人間ですから! みんな良い人間でありたいんです。
革命家にもなれない人間は、そういうクソ人間としてクソみたいに生きたらいいんじゃないですか。抵抗とは生きていることですから、生きて糞尿を撒き散らしている限り、まだ続いています。転んで道に糞尿を撒き散らしたらいいんです。