このフラットな世界でおしっこを漏らしながら兄貴の死体を埋めに行く

 良い抵抗と悪い抵抗などというものはないというのを書きました。いくつか書き忘れたことを足してみます。
 ここで言っていたのは「失敗予備軍はもう大体完成しちゃったスターリニズムにより既に救済されているので蜂起しない」みたいなことです。だってもう、大体良い世界ができちゃったから。後は改革くらいしかないんでしょうね。怒って人民と共に立ち上がるとか、皆んなのためとか、そんなの用済みなんです。
 もちろん、失敗予備軍の人たち、つまりわたしたち大体全部はいつもビクビク怯えています。いつ失敗するかわかりませんし、失敗すれば皆んなに棒でぶたれますから。実際、色んなところで失敗した人たちが棒でボコボコにされています。そういう人を見て「自己責任!」と言って楽しそうに殴る人もいますが、一方で「うわぁ」と思いながらも殴らないと失敗者になってしまうから殴る、政治犯で捕まるから殴る、そういう人もいます。でもまぁ、要するに殴ってるんだから一緒ですよ。
 わたしはこういうのはどうかしていると思うし、その考えだけならばわたし一人の話ではさすがにないと思っているのですが、そういう正義っぽいものに動かされて、「皆んなのために」立ち上がったりしても、やっぱりダメなんです。不思議ですね。結構それなりの数の人が、ピンポイントでならそこそこ通じる筈なのに、いざ声に出すとボコボコにされる。なぜか。既にここはスターリニズムの大体できあがった地上の楽園なので、楽園で大きな声を出してはいけないのです。
 まったく余談ですが、クルアーンにも「デカい声で陽気に喋って歩くな」みたいなことがあって、楽園では静かにサラームと挨拶してる、みたいな描写が何度もあります。アラブ人は大体デカい声で陽気に喋って歩いているので、どないなっとんねんと思うのですが、それはともかく、楽園というのは大きな声を出してはいけないところです。図書館みたいな感じですね。多分。
 それで仕方がないので、改革です。
 前のお話だと改革のことをボロクソに言っているようですが、そうではないんですよ。個別のお話でなら、わたしも改革的なことはたくさん考えるし、賛成するものもあります。そしてそれらが無効ということではなくて、結構うまくいくと思うんです。世の中、そういう小さな努力でちょっとずつ良くなるんです。だから一気にドカーンとやっちゃおう、みたいな発想は子供っぽいものですよ。
 ただわたしは頭が悪くて脳みそが子供で、まぁ一応日々の暮らしでは大人のフリをして小さなことをコツコツやっているわけですが、本当のところドカーンとやりたいのです。で、そういう子供な部分というのは、結構それなりの数の人の中に残っていて、やっぱりその人達も本当はドカーンとやりたいんでしょうね。そういうのは、なくならないです。もちろん、ダメなものですよ。うっかり道でおしっこ漏らしちゃったら、それはダメでしょう。だから「悪いもの」だと言っているんです。抵抗は常に「悪いもの」です。おしっこもらしちゃうようなものです。
 例によって話がズレますが、おしっこと言えば、人間は基本的におしっこ漏らすものです。犬や猫は大してしつけなくてもおしっこ漏らさないです。なぜか。あの人らは決まった場所でおしっこする習性が元々あるんです。だから、ちょっと教えたらトイレでするとか、割としつけられるんですよ。大人ですね。でも猿は無理。鳥も無理。日光猿軍団のお猿さんたちも、あんなに賢いのにおしめしてたでしょ。あの人らにはそういう習性がないから。で、人間も基本的に猿タイプなので、おしっこは垂れ流すようにできているんです。だからおしっこ我慢覚えるの大変でしょう。子供だって、もういっちょ前に言語とか操ってるくせにおしめしてますからね。それで年取ったらまたダダ漏れですよ。そっちがデフォルトなんです。みんな無理してるんですよ。本来、おしっこダダ漏れが基本なんですから。
 そしておしっこ漏らしてる人は、ちゃんとした人間じゃないんです。だから子供にも投票権とかないでしょう。おしっこ漏らしちゃってるおじいちゃんおばあちゃんからも投票権取り上げよう、って人もいますよね。そのうち本当にそうなる気がします。その是非はともかく、大人ってそういうものです。それが人間です。ちゃんとしてるんですよ。
 そして大人じゃなくなると選挙に行けなくなっちゃうかもしれないし、ほんとはおしっこ漏らしたいんだけど、皆んな頑張っておしっこ我慢してるんです。わたしも我慢します。
 だから「選挙なんか行くな!クソが!」という外山恒一さんは大体間違ってるけど全体で見るとめちゃくちゃ正しいですね。「俺はおしっこがしたいんだ、もうここでするぞ!」みたいなもんです。違いますか。違うかもしれませんね。すいません、外山さん。
 すっかりおしっこの話にズレましたが、前のお話で「改革なんかしかできないという絶望」と書いた通り、改革がイカンというのではなく、そんなことしかできないのか、ここでおしっこ漏らしたらいけないのか、という、極めて子供っぽい感情があるわけです。でもおしっこ漏らす方法はあるんですよ。ボケたらいいんです。ボケたらね、またおしっこダダ漏れです。そしてボケるのは本人のせいでもないし、実際わたしもボケたらイヤだし、もうボケちゃったら仕方ないですよね、みたいなことを言っているのです。それが失敗です。
 おしっこ漏らしてる人は希望ですよ。わたしは根性ないので何もできませんが、おしっこ漏らした人を見ると「やったれ! もっと漏らしたれ!」って心の中で喝采を叫んでますよ。でも大体、おしっこ漏らしてると親切な良い人達がやってきてオシメしたり、そのまま引きずられてドナドナみたいに連れて行かれるんです。それで同士スターリンの作り上げた素晴らしい老人ホームとか素晴らしい病院とかに入れられてしまうので、残念ながら道ではあんまり見られないんです。
 非常に古いマンガですが、『気分はもう戦争』というのがありますね。矢作俊彦と大友克洋。これ、中露戦争が勃発する話で、その状況を巡っていくつか別々のエピソードが語られるんですけど、色んな事情の義勇兵みたいのが集まってくるんですね。まぁ戦争がしたいんです。「まだまだ戦争するぞーッ!俺はーッ!」みたいなあのノリ、心情を揺さぶりますね。そして大事なのは、「俺は趣味で戦争してんだ、戦場くらい自分で選ぶ!」という右翼ハチマキの台詞ですね(うろ覚え)。まぁあれはマンガなので、マンガなんか例にあげる時点で子供なわけですが、ここはおしっこ漏らす系の話をしているので、子供っぽく行きます。まぁ革命というのは、そういうところがあるんじゃないかと思います。
 こういうことを言うと「じゃぁ勝手にやって下さい、どうぞご自由に、シリアとかどうですか?」みたいな大人がいるんですが、おしっこ漏らしてる人はもう馬鹿になっちゃってるんですから、そんな常識通じませんよ。周りの大人にもおしっこかけちゃいます。だから「悪いこと」なんですよ。革命はいつも「悪いこと」です。大体、シリアはトイレじゃないです。
 そういう革命気分、おしっこ気分というのが消えてなくならないのに、もう楽園だから革命とかする必要がないんです。そういう絶望です。「あれ、もう終わっちゃってたの?」みたいなもんです。「喧嘩だ喧嘩だ~!」とか言ってトンカチとかバットに釘グサグサ刺したのとか持って日本酒頭からかぶってかけつけたのに、もう全部終わって仲直りしてたり警察来て現場検証とかやってました、みたいなもんですね。『気分はもう戦争』もそういう作品でしょう。ただまだあの時は冷戦でしたからね。戦争してましたよ。今はもう終わりました。
 もう戦争が終わって平和になったので、皆んな家に帰ったんでしょうね。それぞれのお宅に引きこもって仲良くやっているので、お宅同士でやりあうこともないんです。右翼は右翼、左翼は左翼、アニメファンはアニメファン、みたいに島の中で細かいところを語り合う世の中なんです。だってその方が平和だし、大きな声を出しちゃいけないから。ただ藤村修さんが良いこと言ってましたね。こういう「島宇宙」だと物事極端になるんだって。お宅の中で細かいところをやりあってるから、その中で先鋭化していくわけです。サティアンみたいですね。そういうのを指摘できる藤村さんはすごく良識のある方だと思います。
 もちろん、だからお宅から出てきて「喧嘩だ喧嘩だ~!」ってやれってんじゃないですよ。わたしだってそんなの面倒くさいですよ。平和にやりたいですよ。お家大好きだし。だから家の前とかにね、こう縁側的というか、軒先みたいなところでボーッとしているくらいが理想的だと思ってるんです。プライベートとパブリックの間の空間ですよね、軒先というのは。
 いわゆる第三世界的なところを旅していると、大体そういうエリアがあるんですよ。そこでランニング一枚のオッサンが煙草吸いながら新聞読んでたりするんです。家の前の道にプラッチックの安っすい中国製の椅子出してね。それで知り合いが通ると「おー! どこ行くんや。ちょっと寄ってけや」みたいなるんです。全然知らない人でも「おー! どっから来たんや。ちょっと寄ってけや」とか気軽なもんです。だからって奥さんの裸見せたりするわけじゃないですよ。そこはプライベートで、お宅の中で、そういう部分はありますよ。でも、半裸のオッサンは軒先にいるんですよ。本当はそういうのが社会で、公共性というものです。パブリックの一歩手前です。スーツとか着なくて大丈夫です。
 また更に話がズレますが、こういう世界にいると妙な安心感というのがあるんですよ。カイロとかね、客観的に見れば酷い町ですよ。ほんとね、外にいると絶対行きたくない。空気は悪いし交通ルールなんかないしボッタクリはいるし人は図々しいし最低ですよ。でも妙な安心感がある。なぜか。いろいろ考えたのですが、何かあった時、その辺にいる人が決して他人事にしない、ってことなんじゃないですかね。つまり、軒先的な空間にいつも人がいるんですよ。文字通りの軒先じゃなくても、家の延長というか、プライベートとパブリックの中間気分くらいで、人がいて、その人達は他人じゃないんです。味方かどうかはまだわかりませんよ。でも必ず「なんやなんや」って介入してくるんです。だから放っておかれない。この人達を説得できれば味方になるし、そうなればまだ勝てるんです。助けてくれるんです(もちろん説得できなければ負けます)。そういう安心感がある。こういうのを手放しに礼賛するのとか、お花畑すぎて嫌いですし、「カイロに住みたいかー?」って言われたら0.5秒で「イヤです」って即答ですが、まぁそういう良い面というのはあるんですよ。
 でももうこの国とか他の進んでるちゃんとした国ではスターリニズムが大体完成したので、軒先はなくなったんです。社会は要らなくなりました。だから道で座ってる人、いないでしょ。座ってるのはコンビニの前のヤンキーだけですよ。それで道を通る大人は眉をひそめるんですよ。大人は道に座らないんです。パブリックコメントとかメールで送るんです。
 また話がズレますが、だからヤンキーはちょっと希望だと思ってますよ。ヤンキーなら掃いて捨てるほどいますからね。それでヤンキーは大体地元志向で、伝統志向で、家族志向でしょう。どちらかといえば右翼的ですね。だから右翼革命というのは革命としてはまだ希望がありますよ。実際、右翼改革なら行われていますから。一方、左翼革命はもうやっちゃったので用済みです。すが秀実さんが「全共闘が負けたなんて誰が言ったんだ、ちゃんと金でなんでも買える世の中になっただろ、革命は成功したんだ」みたいなことを仰っていますが、その通りです。68年じゃなかったと思いますけど、どっかの時点でできちゃったんでしょうね。世の中不思議な事があるもんです。
 言っておきますが、そういう人の信じてる伝統が本当に伝統だなんてわたしは思ってませんよ。残念ながらわたしはヤンキーじゃないし、そんな伝統なんて大方戦後くらいにテキトーにでっち上げたもんだろうと思ってます。天皇制だって万世一系とかじゃないでしょう、どう考えても。でもまぁ、その人達が信じてるんならいいんじゃないですか。そこを説得しようなんて無理ですからね。だってアホだから。知りませんよそんなこと。信じてるうちが花ですよ。それはもう、どうしようもないことで、そこから出発するしかありません。だからヤンキーだけはその辺にウヨウヨいる、という現実を肯定的に見たいと思っています。人類の9割はヤンキーですよ。字が読めるだけでも凄いくらいです。
 話をだいぶ前に巻き戻すと、わたしたちはビクビクしています。失敗予備軍です。それは抽象的な意味だけじゃなくて、そこそこお金があるからです。プチブルですよプチブル。わたしなんかプチブルです。自己紹介で「プチブルです」って言ってみようかと思います。プチブルはビクビクしてるんですよ。いつお金がなくなるかわからないから。いつヒンコンソーに落ちるかわからないから。実際、格差が広がってるんでしょ? 怖いですね。わたしも怖いですよ、プチブルですから。だからピケティなんか支持してるの、そういう層じゃないですか。本当の貧乏人のヤンキーじゃないですよ。また一応言っておきますけど、そういうのがダメってんじゃないですよ。それはそれで良い改革。結構じゃないですか。頑張って下さいよ。わたしもちょっとくらいなら頑張ります。そういうのをプチブル日和見主義とか言ったってドツボに嵌まるだけじゃないですか。まぁちょっとずつね。でもそういう気持ちと同時に、この風景全体を眺めて物凄い脱力感に襲われるんですよ。わたしは馬鹿なので、そういう風景の絶望感の方にすごく引っ張られちゃうんでしょうね。怒ってるんじゃなくて、元気がなくなるの。
 でもね、死にませんよ。わたしもおしっこ漏らして漏らして、漏らしてるうちに結構な年になりましたからね。子供ですけど、同時に大人です。大人には大人のおしっこ漏らし方があります。こういう世界を生きていく、というのも大事だと思ってます。外山さんも「徹底的に長生きしてやる」って言ってましたよね。意味は違うかもしれませんが。
 この世界はね、もうクソみたいにフラットなのですが、このクソを生きるというのも大事なんです。いいですか、失敗予備軍の皆さん、革命家の皆さん。それはそれで大事。ここはどこかと言いますと、力石が死んだ後の『あしたのジョー』です。『惡の華』の高校生編です。あれ、どっちもね、力石が死んだ所でやめたり、夏祭りでやめたりしたら、大した作品じゃなかったですよ。「あの前までが良かった!」って言う人は必ずいらっしゃるでしょうし、その気持ちはよくわかりますけど、でも違うんです。物語が終わった後、その後があるんです。それはなにかというと、ここです。わたしたちがいる、この、ここですよ。現実界の砂漠へようこそ! じゃじゃーん。みたいな。
 まだ終わりじゃないですよ。物語は終了してキレイに話まとまってますけど、まだ続きます。道で転んで糞尿撒き散らしながら生きるんです。そう簡単に同士スターリンの作った素晴らしい病院なんか連れて行かれてたまるかってんです。まだまだおしっこ漏らすぞ!ってもんです。それが抵抗です。
 わたしたちはクソ兄貴の死体を埋めに行くアンティゴネーです。理由なんかないです。犯罪って言われても埋めます。埋めるって言ったら埋めるんだよ! もうなにもかも終わってるし、兄貴もう死んでるし、業の深かったオヤジさんのドラマチックな人生もとっくの昔に閉幕してるけど、やっぱり兄貴の死体をほったらかしにはできないんや! 『アンティゴネー』もね、書いたのはきっと、ピッコロとか倒した後の鳥山明先生だったんでしょうね。どないせいっちゅうねん!という。でも描きました。だから今がある。わたしたちがいる。
 まだホセとかとやんなきゃいけないし、恥そのものとなって死後の世界を生きていたら意外なことに文学好きの美人さんと出会ったりするかもしれませんよ。まだまだ捨てたもんじゃない。
 それで真っ白になるまで生きましょう。わたしは生きますよ。クソが!

4575930318 気分はもう戦争 (アクション・コミックス)
矢作 俊彦 大友 克洋
双葉社 1982-01-24

またちょっとつづき?:馬鹿には普遍はわからない、でもそこがいい!



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