「正論のまかり通る」時代

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 「正論のまかり通る」時代になった、と思っています。
 正しい世の中になった、などという意味では勿論ありません。
 例えば「ルールはルールなのだから仕方がない」「選挙という枠組みがあるのだから政治活動はその範囲内で」「悪法も法だから」といった、それ自体には直接的には反論しにくい、言わば「ルール厨」が幅を利かせている、ということです。PCの「正しさ」と同様です。テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗でも書きましたが、PCというのは基本的に正論であって、ある種の理性と教養、推論能力を植え付けられた人間であれば自然と導かれるような正しさを主張している場合が多く、それ自体には正面切って論駁しにくいものです。問題は、そのような正しさが一極的・一律に支配して建前だけが独り歩きし、「愚かしさ」「ダメさ」「弱さ」が許容されない世界が作られつつある、ということです(外山恒一の言うところの世界のスターリニズム化)。
 なぜこのような世界が醸成されてきているのか、については色々なことが言えるでしょうし、68年の闘争の結果本当に左派が勝ってしまった、というのもあるでしょう(局所的な学園紛争は鎮圧されても、時代の空気が徐々に社会を変えていく)。ただ個人的に強く感じるのは、社会が整備され小奇麗で便利になった結果、「系の中で破綻のない言説」が本当に世界そのものを表象しているかのような考え方が広まってしまったのではないか、ということです。
 「系の中で破綻のない言説」とは、例えばプログラミング言語のようなもので、その内部に限って言えば論理的に辻褄のあった箱庭的世界をイメージしています。近代的思考法とは、一定の系を区切って考えるもので、科学と呼ばれるものが立脚するのもそうした思想です。ちなみに近代スポーツというのも同様で、ルールが整備された上で、その内部だけで「正々堂々」戦うことが基本になっています。サッカーとは何かと問えば、極論するならサッカーのルールです(実際には後期ウィトゲンシュタイン的な遊戯が最初にあり、その過去を遡及的に打ち消す形で近代サッカーが成立しているに決まっていますが)。系を区切ることで、その内部の理論や技術は飛躍的に進歩します。それが近代科学の(素晴らしい)成果というものですし、伝統武術家が何を言ったところで、ボクシングのルールでボクサーと戦えば絶対に勝てません。更に言えば、路上で戦っても簡単にはことが進まないでしょう。それほどまでに、範囲を限定してその中で徹底的に煮詰めていく、という作業はわたしたちの能力を増大させるのです。
 ですから、系を区切ること自体は悪いことでも何でもないのですが、この方法が余りに敷衍し、社会全体に行き渡り、更にその社会の運用も秩序立てられ、電車は正確に来るし電気は止まらないし、お店で売っているものは食べてもお腹が痛くならないし、ちゃんと値札がついていて価格交渉などしなくて良いし、という環境の中だけで育ってしまうと、系を区切った結果に人工的に作り出された箱庭的・試験管的空間が世界そのものだと勘違いしてしまうのです。
 子どもの頃から「選挙に行こう!政治参加!」などというプロパガンダを聞かされ続け、選挙以外で「政治参加」する者は「頭のおかしいパヨク」かテロリストとしか見做さない、そういう空気の中で育ってしまえば、お役所の仕事のように「ルール」に則って順番にハンコを貰ってくるのが政治だと勘違いしてしまっても無理なからんことです。
 先のエントリの繰り返しですが、この世界観が徹底されると、意味がそのまま世界に張り付いている精神病的構造が出来上がります。近代的主体とは神経症的主体であり、答えもなく問い続けることに立脚し、換喩的推論を無限に水平展開していくものですが、精神病的世界では問いの前に答えが現前し、硬直し流動性を持ちません。15パズルとかスライダーとか呼ばれるスライドパズルは、4×4の升目の中に一つだけ埋まっていないマスがあり、そこに向けてピースを移動させていくことで完成させるものですが、精神病的世界では16の升目が最初から埋まっていて、ピースを移動することができません。
 先日某所で、政治意識の高い(?)四十代の方たちのお話を伺う機会があったのですが、その一人がこうした硬直した世界観のことを「幼児的」と評されていました。小さい子どもは、モノの並べ方などの秩序に異常に拘る時期があり、例えば「歩道の上の白い敷石だけを踏んで歩く」ような遊びは誰しも経験があるでしょう。わたしは小さい頃、上野動物園に連れて行ってもらった後、「上の動物園はもう行ったから、下の動物園に連れて行って」と言ったことがありますが、こうした小さな秩序や二項対立に立脚して閉じた世界で考える、というのは、成長過程で必要な段階なのでしょう。おそらく論理的思考の訓練を行っている時期なのではないかと思います。しかしこの段階が終わらないまま、大人になっても小さな秩序が総べてだと信じてしまっている人間が多すぎる、というのです。
 ただわたし自身は、このような世界が「悪」だとは断じられません。
 もしかすると古代や中世はこのような硬直した世界だったのかもしれませんし、近代という時代が特殊で、それがただ終焉しようとしているだけかもしれません。ある特定の時代に育った人間が、それとは違う世界観を前にしたからといって、軽々に幼児的とか馬鹿と言って唾棄してしまうことはできないでしょう。
 勿論わたし自身は、神経症的な昭和に生まれた人間であり、世の中には裏と表、建前と本音があり、様々な人と立場があって、一つのロジックで全体を覆い尽くせるものではない、ある時ある場所で正しかったことも状況が違えばそうではないし、一人の人間でも言うことが変わるし、喧嘩したり仲良くしたり、色々やりながら生きていくのが人生だ、と感じています。だからこそ、見通しが良く一つの正義が支配するフラット世界に対する抵抗を考えているのです(良い抵抗と悪い抵抗などというものはない)。しかしフラット世界やグローバリズムに良いところが沢山あるように、もしかすると「正しい」のは彼らかもしれないのです。いや、正論は正論である以上、彼らは実際にある意味「正しい」のです。ただ、「正しい」ことが総べてで良いのか、そういう倫理的次元で戦っているのです。
 現代日本において、それこそ今の四十代より上くらいの世代による「左派」言説が、少なからぬ若い人たちに鼻で笑われるのには、こうした彼らの「正しさ」を侮って見ているところに一因があるでしょう。若い彼らは彼らで、育ってきた環境に最適化しているのであって、彼らなりに一理も二理もあるのです。それを一旦呑んだ上で、それこそポストトゥルースの時代に即した戦い方をしなければ、プロレスにすらならないのではないか、と考えています。
 外山恒一などは、こうした彼らの「自由からの逃走」を全部引き受けて、自由は限られた人々だけが享受し、その他の人たちは望み通り飼い殺されていて結構、と考えているようです。わたし自身も共感するところはありますが、これが解答であるのかは心許ないですし、また民主主義なる建前が硬直し張り付いた世界にあっては、ルール厨とは別の意味で「身も蓋もない正論」を正直に吐いてしまっている外山のやり方が「勝利」するとも思っていません。そもそも彼にとっての「勝利」が本当にファシスト一党独裁なのかもわかりません。実際、どっちに転んでも素晴らしい世界が出来上がるわけではありませんし、そうした現況をすべて飲んだ上での、彼の生き方のパフォーマティヴな価値には大いに共鳴するところがありますが。
 本当のところ、わたしにはよくわかりません。わからない、ということが大事だと思っています。小さな狭い「わかる」共同体というものの価値は、その外に広がる広大な「わからない」世界への敬意と、二つで一つだと信じています。だからせめて、この世界の不可解さに対し「畏れ身を守る」(=タクワーتقوى)気持ちだけ絶やさないように、生きていこうと思っています。