「選挙に行こう」キャンペーンの不気味とアルゴリズム翼賛

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 「選挙に行こう」キャンペーンというものが実に胡散臭いです。
 最近は投票に出かけると一杯無料、みたいなサービスも出ているようで、国家の作為というより、どこかオリンピック的というか、「人民の自主参加」による投票運動、というポストモダン的な状況が出来上がっているようにも見えます。
 選挙に行くのは良いことではないか、多くの人々の政治意識を高めて民主主義をより良いものにすることの何が間違っているのか、等と言われるかもしれません。確かに、今わたしたちの暮らしている社会状況の中で、選挙に行くこと自体は、人のものを盗んだり猫をいじめたりするような種類の「悪いこと」ではありません。老いた親の肩を揉む程度には、ぼんやりと「良いこと」とされているものです。だからこそ、このキャンペーンは不気味なのです。
 表立って異を唱えにくいことを、ただ肯定に肯定を重ねるが如く繰り返す。この気持ち悪さをわかりやすく表現するなら、次の一点に尽きるでしょう。
 なぜ「○○への投票」ではなく「投票」が呼びかけられるのか。
 ある人が高い政治意識を抱いていて、それへの共感なり賛意なりを人に訴えたいのであれば、その人の支持政党への投票を訴えかければ良いではないですか。ところが、そうはしない。特定政党への支持を呼びかける人がいたら、その人は「政治的な人」と見做されます。「選挙に行こう」が無味無臭無害だと思われているのに対し、「○○党への投票を」と言う人がいたら、その人は色のついた、バイアスのかかった、少し「濃い」人で、少なからぬ場面で「面倒くさい人」ととらえられます。
 ある政党なり個人なりへの投票をよびかける人にバイアスがない、などとは言いません。勿論あるでしょう。問題は、特定政党ではなく単に「投票」を呼びかけることにはバイアスが「ない」と思われていることです。
 言うまでもないことですが、現行の選挙制度は絶対のシステムではありませんし、実際、戦後に限っても何度も変更が行われています。そもそも現在行われているような選挙というシステムが一般化したのはそう昔の話でもありません。今のやり方で選挙をすること自体が、既に一つの「選択」です。ただ黙って選挙に行くだけでも、人は一つの決定を行っています。そこから逃げることなどできる訳がありません。
 またこれも当たり前のことですが、政治参加の手段を選挙に限定していること自体、一つの政治的選択であり、作為です。これが絶対の悪だと言うつもりはありません。完璧ではないにせよ、紆余曲折を経て一つの落とし所として今のやり方がある訳でしょう。それを支持する人がいても、別段おかしなことではありません。しかし支持しない人がいても、それもまたおかしなことではありません。なぜ政治参加の手段が選挙に限られるのか、ストをやろう、デモをやろう、テロをやろう、街宣車で乗り付けよう、イタズラ電話をかけよう、という人がいたって別段不思議ではありません。勿論支持するかどうかは別です。支持しないということは「ボクは何年かに一回役にも立たない紙切れ一枚箱に入れることで、一切の政治参加の権利と意志を放棄します」という立場を表明している訳ですが、あまりそうは見られていないのが不思議なことです。
 わたしたちの社会ではますます、無味無臭無害なものが好まれるようになっています。政治的に色のある人、クセの強い人、主張のある人、そういう人は敬遠されます。何か作為があり、面倒を起こす人、と見做されます。ぼんやりとまどろんでホメオスタシスの夢に揺られていたいのに、せっかくのうたた寝を妨げる存在と見做されます。
 良い抵抗と悪い抵抗などというものはないから始まる一連のエントリで書いた通り、社会を電気回路のようなものとみなすなら、人はそこに存する「(電気)抵抗」です。抵抗は邪魔をしている訳ですから、ない方が良いようにも見えますし、実際あんまり抵抗が大きいと害悪にもなります。道路で一人だけノロノロ運転をしているようなものです。しかし全く「抵抗」が排された超電導のような世界があるとしたら、そこに人の居場所はないでしょう。
 ノロノロ運転で渋滞を引き起こすのも考えものですが、渋滞を防ぐ一番の方法は車を入れないことです。そういう通行止めの誰も走れない道路が「良い道路」なのか、そういうことを問うているのです。
 無味無臭無害なものが好まれる、と言っても、そこで好まれているものが本当に無味無臭な訳ではありません。わたしたちが有限の時間的存在である以上、真の無味無臭、真の「ノンポリ」、真の「無宗教」などには到達できるものではないでしょう。それを人々も無意識のうちに薄々感じているので、「本当のところ無味無臭ではないけれど、無味無臭とみなす」仮構というものを設定しているのです。○○党への投票呼びかけは「政治的な行為」だが、投票そのものの呼びかけは無味無臭とみなす、と。繰り返しますが、これは別段ニュートラルな立場でも何でもないのですが。

 一つ連想するのが、コマンドとアルゴリズムの話です(確かこの対比を使った論をweb上で読んだ筈なのですが、元記事を見つけられません)。人々はコマンドを嫌悪しますが、アルゴリズムは歓迎します。コマンドとは、顔と名前を持つ生きた人間が、コンピュータの前に立って意志をもって打ち込むものです。たとえば「○○という会社のサイトが優先的に表示されるようにしよう」等です。こういう作為を、現行社会に住む多くの人々が嫌っています。だから「ステマ」が見つかったりすると、一斉に袋叩きに向かうのです。人々は「意図ある行為」に目を光らせています。
 一方でアルゴリズムは歓迎されます。検索エンジンが一つの手続きにそって特定企業のページを上位に表示したところで、それに文句をつける人はあまりいません。「人工知能」のような、何か内側に仕掛けがあって、その仕掛けが一定の手続きに従って答えを出してくれるものも、好まれます。アルゴリズムだって人が作っているもので、様々なアルゴリズムがあり得る中で「そのやり方」を選んでいるのは作為な訳ですが、その点は不問に付されます。
 本当のところ、ここでアルゴリズムと呼んでいるスタイルを取ること自体は、伝統的なトリックに過ぎません。実際は特定事件を取扱うためだけの法改革なのだけれど、具体名を書いてしまうとマズいので、一般的な表現を使って法律を作る、といったケースです。個別名をあげて誰かを攻撃することには作為と責任が発生しますが、一般的な表現に落とし込んで漂白去勢してやると、そこで責任が剥がれ落ちます。法は匿名化され、誰の作為ともつかないままパワーを発揮します。
 一般化=法というものには、それが特定個人の手を離れる代わりに、一人の人間には到底成し遂げられなかったことを達成するパワーがあります。パワーの源泉は、人々が「アルゴリズム」を好む性向そのものです。法自体はただの言葉、紙切れなのですから、実際の力が人々から来ているのは当たり前です。人々は顔のないもの、無名のもの、公平でわたしたち一人ひとりを識別しないもの、常に同じ動作を正確に繰り返すものを好むのです。
 この性向自体を否定しようというのではありません。ただ、アルゴリズムでも法でも良いですが、そうして一般化されたものが、果たして本当に一般的なものだったのか、そこに保証はありません。法もまた人が作ったものに他なりません。作為があるに決まっているのです。それもまた、コマンド的なもの、○○党への支持呼びかけに似たものから発しているのですが、一旦法の形を手にすると、もう止めようもない馬力で走り出し、人の手を離れてしまうのです。
 法は言葉であり、言葉に時間はありません。(時限法のようなケースを除いて)法は死にません。ただ増えて積み重なるだけです。法ができる以前、法がまだコマンドのような顔をしている時には反対する人もいますが、一旦成立してしまうと、後は自動機械、不死の存在として振る舞い、これについてはほとんどの人が口を挟みません。回転する機械に手を突っ込めば指をもっていかれるように、手のつけようもないもの、アンタッチャブルなものになるのです。法は無死=無私との存在として近づく者の指を飛ばし、神の如く人々を処理していきます。その様を人々は、うっとりとした眼差しで眺め、ホメオスタシス=快感原則の夢に酔うのです。

 「選挙に行こう」キャンペーンに見られるのも、このアルゴリズム翼賛的な気味の悪さです。
 わたしたちは内に死を秘めた有限の存在であり、昨日と同じ明日など絶対に来ないのに、毎日決まった朝が来て毎日決まった夜が来る、そうした日常が永遠にループする夢を見ていたいのです。快感原則とはそういうものです。その夢を妨げる「政治色のある人」は、うたた寝の窓の外を通る選挙カーのようなもので、良識ある一般市民の嫌悪するところです。明日は昨日と違うのだ、と言う人は、あまりにも生々しい現実を突きつけてくるので、敬遠されるのです。
 「一般市民」「一般学生」「罪のない人々」といった表現もまた、無味無臭無害な位置があり得ると思いたい、そうした欲望の呼び出したものです。わたしたちは意識せずとも状況に参加して、既に何かを選び取っているのですが、「そんなコマンドは打っていません、アルゴリズムに従っているだけです」と言いたいのです。突然に訪れた不幸、眠りを妨げる街宣車の騒音、そうした存在に対し、「わたしは何もしていないのに!」と正義を振りかざしたいのです。
 言うまでもなく、彼または彼女らは「何もしていない」訳がありません。罪のない一般市民など存在しません。ただ、そこに名前を書きつけるチャンスを、うたた寝の間に見過ごしてしまっただけの話です。パソコンのコールセンターに電話をかけてくる人は「何もしていないのに突然動かなくなったんです」と訴えます。しかし何もしていない訳がないのです。
 あるいは、実はチャンスがあった、名前を書きつけるべき時があった、ということに、意識できないところで人々は気付いているのかもしれません。それを直視するのがイヤで、自分にはチャンスがなかったのだ、(度胸がないのでなく)こういう星の元に生まれているんだ、と思いたいのかもしれません。名前を書くべき時があり、それをただ見過ごしているのなら、それは本人の過誤であり、本人の責任です。そんな責任を負いたくない、というのも、気持ちはわかります。だから言いたいのです。「何もしていないのに」「仕方がなかったんだ」と。
 その言い訳を糊塗するためにこそ、「選挙に行こう」とだけは声高に叫びます。何もしていない訳じゃない、ただ何にもならないことだけをしているのだ、と。無味無臭の無味無臭性だけを、その角度方向に正確に沿って増幅しているのだ、と。
 勿論、その意味を十全に飲んだ上でなお「選挙に行こう」というなら、これを止めるものではありません。ただそれと同じくらいの強度で「選挙に行くな」という人がいてもおかしくないし、○○党に投票せよ、という人がいても不思議はありません。「選挙に行こう」が真っ当な意味を持ちうるとしたら、これらと同等の水位で語られる時だけです(そして勿論、そんなところで語られてはいない)。

 東浩紀さんが、選挙の棄権を呼びかけて署名を集め、色々な方面から非難を浴びているようです。最初は、非難されているのは活動のスタイルなのかと思っていました。webで署名を集めて当局の訴えるなどというやり方は、はっきり言ってかっこ悪いです。わたし自身も一応署名しましたが、正直、ちょっと恥ずかしいです。ところが、非難されているのは選挙棄権の呼びかけという主旨自体だと知って、少し呆れてしまいました。
 東さんのやっていることなど、外山恒一の反選挙活動に比べると十周遅れくらいで、おもしろさもかっこ良さも足元にも及ばないのですが、あの「クソダセェ」漂白された活動ですら、「政治色」として嫌悪されている。アルゴリズム翼賛体制も一周回って乾いた笑いの上がってくるレベルになってきました。
 選挙に行こうが行くまいが、どこの政党に投じようが「外山恒一」と書いて出てこようが、好きにした良いでしょう。それでもあなたは何かをやっているし、何もしないでもお腹は減るし、年をとって病気になって死にます。あなたは罪なき一般市民でもないし、その手は無味無臭ではありません。