背中の文字と「間に入る者」

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 先日某所で、背中に書かれた文字のことを話しました。
 <わたし>は世界の開きであり、この視点から世界を眺めることができるのだけれど、自分の背中だけは見ることができません。勿論背中じゃなくても良いのですが、何にせよ世界の開きは零度の消失点ではなく、何か物質的なもの、眼差されるもの、理不尽なものを背負っているということです。そのモノ性の部分だけは、世界を眺めるbon sensの目には映らない。透明で理性的な視点には回収されないのです。
 その文字を読むというのは、<私>とそこから眺められる世界を合わせた<全体>にとって、モノとしてのわたしは何者かを問うことです。この文字は神様にしか読むことができません。
 ここでの神様とは全体のことであって、御札を買ったら救われるとか、そんな話は全然関係ありません。祈ろうが信じようが救われたりしません。何をやっても無駄、救われない、というこの状況があった上で、あなたはどうしますか、というテストをわたしたちは生きている、とわたしは考えています(テストは今もって継続中なのではないか)。この世界の不条理というのは、背中の不条理、モノという不条理とパラレルです。運命と言い換えても良いかもしれません。
 そうは言っても、背中に書かれた文字は大変気になるので、わたしたちは世界の開きから見える範囲で似たものがないか探そうとします。全体にとってのモノとしてのわたし、という関係に相似したものを見つけようとするのです。例えばヒトにとってのサルは神にとっての人に似ているのではないか、あるいはわたしにとっての彼・彼女は神にとってのわたしに似ているのではないか、ということです。そうしてふと、世界の中にわたしの背中を発見します。モノとしてのわたしに似たものを見つけ、「これがわたしだ!」と思うのです。このようにして成り立つのがファンタスムというもの、抹消された主体と対象との関係であり、平たく言えば転移関係、恋愛のようなものですが、これは勿論、ある種の錯覚ですから、永遠のものではありません。モノとしてのわたしかと思っていたのが、近づいてみると毛穴の汚れとか目立つし、あれれ、こりゃちょっと違うや、となるのはよくある話です。それでも見つけた瞬間は「これだ!」と思うわけで、少なくともその瞬間だけは、やはりわたしたちは、(再現不可能な奇跡として)世界の中にモノを発見したのだと思います。
 『愛と幻想のファシズム』のラストで確か、寒空に輝くキラキラしたものを見つけたと思ったゼロが、近づいてみてそれが鳩の糞だったと気づく場面があります。「鳩の糞だった、あれは鳩の糞だったんだよ」。近づいてみれば鳩の糞なのです。
 ついでの話をすれば、本当はそこで終わるのではなく、鳩の糞だと気付いてからが人生です。ゼロはあそこで死ぬわけではありませんし、死んではいけませんし、むしろ鳩の糞だったこの現実をどう生きるか、というところから、本当の生が始まります。それが試練であり、テストでしょう。懲りずにまたキラキラしたものを見つけたり、鳩の糞には鳩の糞で良いところがある、と思ったり、そんな色々を繰り返しながら人はこの罰ゲームのような生を生きて死ぬものです。

 さて、以上は前フリであって、問題は、この背中に書かれた文字を読めます、という者がゴロゴロいることです。世界の中に存在していて、尚且つモノとしてのわたしを解読して下さるというご立派な方がいらっしゃる訳です。
 勿論そんなものはペテンです。仮に読めるという者がいたとしても、そんな奴らに勝手にわたしの背中の文字を読まれてたまるか、というものです。
 そしてわたしにとっての信仰、イスラーム、服従ということは、結局そこがコアなのではないか、と勝手に思っています。
 لا إله إلله اللهラーイラーハイッラッラーがno god but the godであり、そもそもの始まりは神などないといことにある、というのは中田考先生他色々な方が丁寧に説明して下さっていることです。「神などない、しかし何か残りがある」の、something restだけが問題なのです。something rest、世界の縁よりずっと手前のところで、中間者的な被造物が大きい顔をしているのはオカルトやスピリチュアルの類であって、まぁそうしたものがこの世からなくなることはないでしょうが、ある種のまやかしだと思って眉に唾つけて接しないといけません。

 当たり前ですが、聖典というのは現代日本とは全く違う環境で下されたもので、古典の常として、その時代のコンテクストというものを感じて読まないといけません。そして実際に聖典に親しめばすぐわかることですが、主が世界を創造された、などというのは自明であり、特に議論の対象にもなっていません。繰り返し語られているのは、唯一の主ならぬ「その他の神々」的なものです。その他のものというのは、<わたし>と主の間に入るものです。これをشفعシャファア、執り成しと言いますが、この語には仲裁する、倍にする、偶数、のような意味もあり、要は何か二つのものの間に入って関係を平たくする、通じるようにする、ということです(逆に言えば主とは基本的に「通じない」ものだ!)。神々的なものとか偶像と呼ばれるようなものは、<全体>と<わたし>の間に入って通じるようにする(と主張する)のです。こうした存在こそが、最も激しく非難の対象になっています。
 言ってみれば「あなたの背中の文字をわたしは読めますよ」的な教祖だか社長だか政治家だか、あるいは動物の像だか、そういうものこそが一番問題なのです。問題にされるということは、そういう存在、間に入ってピンハネするような連中が昔から沢山いた、ということでしょう。聖典の時代状況でもそうですし、現代日本でもそうです。同じ被造物に過ぎないくせに、間に入って「わたしが口利きすれば上手いことやれますから」みたいな奴らがのさばっているということです。
 のさばれるのは需要があるからです。それはそうでしょう。世界は絶壁で不条理で、祈っても願っても何も言ってくれません。とても寂しいし理不尽で辛いです。だから誰でも、平たくしてくれる人、間に入って執り成してくれるものが欲しいのです。アダプター的なものを入れて、鋭利でざらついた世界とうまくやっていきたいのです。そして人は皆弱いので、何らかの形で中間者を求めてしまうことを完全にやめることはできないでしょうし、そういう罪を負って尚、主の慈悲を諦めないことが大切(というかほとんど義務)な訳ですが、だからといってそれが「悪いこと」であることには変わりありません。
 ちょっと余談ですが、「悪いこと」があって、それに手を染めてしまっているけれど、それでいて尚ヤケッパチにならず開き直らず、許しを信じる、ということは信仰を考える上で大変重要なところです。わたしたちはつい、「悪いこと」があるなら、それをやって悪い奴になるか、やらずに良い奴になるか、と考えてしまいます。一旦悪い奴に落ちたらもう信仰もヘッタクレもない、信仰の外に出たのだ、人でなしなのだ、と思ってしまいがちです。しかしこれは全く誤ったナイーヴな発想で、「悪いこと」を行ったとしても、それを「悪いこと」と知って、慈悲を求めている限りはまだ全然信仰の内側です。そもそも「悪いこと」を全くやらずに生きている人などまずいないのですから、そこから先が実質上の信仰と言っても良いくらいです。わたしたちは弱く悪いのですが、それでいて開き直らず、救いを諦めない、ということがコアなのです。
 話を戻しますと、何であれ間に入って執り成してくれるものはペテンであって、わたしたちは不条理な世界、理不尽な全体というものに直接向き合わないといけない。そういう義務があるし、そのように命令されているのです。繰り返しますが、実際にはわたしたちのほとんどは根性ナシですので、色々ズルをやってしまいます。でも一応、目指すべきものとしては、うんざりするほど希望のない全体が、背中の文字を読んでくれて、意味を教えてくれて、モノとしてのわたしを了解し得る何かとして受け止めてくれる(受け止めさせてくれる)ことを求めないといけません。
 そして(死ぬまでは)答えは来ないし、答えめいたものを仄めかす者がいたら、まず詐欺師の類と考えて間違いないと思います。



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