『パターソン』ジム・ジャームッシュ

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 ジム・ジャームッシュの『パターソン』を観てきましたので、ちょっとだけメモしておきます。ネタバレを含みますので気になる方は読まないで下さい(ネタバレしてつまらなくなる種類の映画ではないと思いますが)。

 まぁジャームッシュの映画ですから何も起こらないし眠たいのですが(笑)、「パターソン」という町と同じ名を持つ主人公はバスの運転手で、仕事の傍らにノートに詩を綴っています。同僚のバス運転手は毎朝パターソンの車に寄ってはつまらない愚痴をこぼしていく。同居している恋人は思いつきでカーテンをデザインしたり市場でカップケーキを売ったり、突然ギターを買って「カントリー歌手になる!」とか言い出しちゃう人。ネリーというブルドッグを飼っていて、夜は散歩に出かけ、途中でバーに寄るのが日課。このバーには幼馴染の元恋人が忘れられずに言い寄り続ける男がいて、バーのマスターはチェス大会の賞金のために奥さんのへそくりを使っちゃって、などなど、他愛のないエピソードがただ淡々と流れていきます。
 詩を書いている幼い女の子やコインランドリーで練習するラッパー、犬が「ドッグ・ジャック」にあわないよう気をつけろ、と注意してくれるヒップホップっぽいお兄さんたちなど、魅力的な場面が沢山あるのですが、どのシーンも伏線としては全く回収されず、ただ単に起こるだけ起こって通り過ぎ、二度と戻ってきません。
 主人公のパターソンは寡黙な男で、自らの心情をほとんど露わにしません。つまらない愚痴にも愛想よく相槌をうちます。バス運転手をしながら詩を書いているパターソンに対して、ふわっとした性格の恋人は「世に出しなよ」的なことを言うのですが、パターソン自身にはそこまでの意志がなさそうに見えます。
 普通に考えると、夢を抱き心に野望を秘めながら労働に服する男、という物語が浮かぶのですが、パターソンはそうしたステロタイプな物語から明白に身を引き剥がしています。彼はウォナビー的に鬱屈していませんし、職場の同僚や恋人のつまらない話もそれなりに楽しんでいるようです。当たり障りのない返答も、半ば演じつつ半ば本心なのでしょう。ほどほどに仕事をこなし、綺麗な恋人とかわいい犬に恵まれ、それなりには幸せなのです。しかしそれは、完全な現状肯定とは違う。そういう非常に生々しいラインをこの作品は描いています。
 「カントリー歌手になる!」などと突然言い出してしまう恋人は一見「あやうい」人ではあるのですが、これくらいの女性は全然いますし、さして敷居を越えるのでもなく夢を語り、飽きてやめてしまってもそこに心が引っかかる訳でもなく、ケジメとか決意とかいった概念そのものを持たないまま、ほどほどに楽しく過ごして歳を取っていきます。
 ラスト付近で少しだけどきっとする場面があり(一応そこだけは詳細を伏せますが)、「お前なんか嫌いだ」という、おそらく劇中で唯一鋭角なパターソンの言葉が呟かれます。詩を失ったパターソンは一人で散歩に出かけ、そこで永瀬正敏演じる詩を愛好する日本人に出会います。この日本人に「パターソンの詩人(a poet in Peterson)か」と尋ねられて、彼は「いや」と応えるのです。
 わたしはこの場面で、自分は「パターソンの詩人」ではない「パターソン」だ、という返答を予想していました。ジャームッシュの脳裏にもこの応答があったのではないかと思いますし、それを表すためにこの映画を撮ったのでは、とわたしは考えています。ただ、はっきりそう言ってしまうとあまりにベタなので、例の「ah ha」のやりとりを入れたのではないかと、想像しています。彼は本当に、「パターソンの詩人」ではなく「パターソン」なのですから。
 つまり、彼は詩を書くことにひっかかってはいるのですが、詩こそが真の己でありバス運転手などというのは世を忍ぶ仮の姿、などと紋切型な見方をしている訳ではありません。一方で純粋に一バス運転手として、一労働者として生きているのでもありません。本当の何かと仮の何かがあるのではなく、大切にしている何かがあるにせよ、他のすべてが大切でないわけでもありません。
 そして、非常に多くのリアルな人々の人生というのは、こういうものなのではないでしょうか。
 「本当は漫画家になりたいけど、バイトで暮らしている」といった物語はわかりやすいですし、人は他人のことを、あるいは自分自身のことすら、そのような語らいの中で理解してしまおうとします。何か一つ「本当の彼」「本当のわたし」のようなものを決めて、そこで了解してしまおうとするのです。その方が簡単ですから。
 しかし実際上は、バイトにはバイトの面白さがあり、友人や恋人、家族との関わりがあり、そうした雑多なものの中で人は生きるのであり、漫画がコアであって後は付加物、などという単純な構図に人生は回収されません。色々あってその人なのであり、雑多な人が住むのが町です。
 だから彼は「パターソン」なのです。「パターソンの詩人」として、パターソンの中の詩の部分だけを引き受け、それが自分だ、というのではなく、詩もあれば詩でないこともある、そうしたパターソンとして生きている。それが普通の人生、真っ当な人の生き方、ということなのではないでしょうか。

 と、そんなことをぼんやり考えながら眺めていましたが、こうして意味に回収してしまうのが無粋な類の作品ですし、個別に見て魅力的な場面が沢山ありますので、是非それぞれの楽しみ方をして頂ければ良いかと思います。個人的にはコインランドリーのラッパーが一番カッコ良かったです。それからあの幼い子供の詩は本当に素敵ですね。
 全く余談ですが、この映画の英語は物凄いわかりやすいです。詩の朗読箇所については、ゆっくりですし英語字幕も表示されるのでわかりやすくて当然なのですが、他のセリフもびっくりするくらい明晰判明で、ぼーっと見ていても九割以上聞き取れます。どうしてここまで違いが出るのでしょう。どの映画もこれくらい易しい英語で作って頂けると大変ありがたいのですが……。



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