ネタバレのセクシュアリティ

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 ネタバレになるのですが、ある小説に記憶喪失の主人公が登場します。何かに追われるように夜の山中を駆け下りながら、彼は自分がどこにいてどこに向かっているのかもよくわからないことに気づきます。その山中で偶然にも別の男に出会い、主人公は自分が誰なのか思い出せないことに気づき、動揺しながら告白します。山中の男は気味悪がりながらも行動を共にし、二人は夜通し歩いてようやく人里にたどり着きます。この二人の男が本編の主な登場人物になり、その後の二人のサバイバルが主な筋立てとなります。
 身分を証明するものもお金も何も持たずに山を駆け下りてきた主人公は、山中で出会った男と奇妙に共棲しながらなんとか生き抜き、やがて生活基盤を築き、別れ別れになります。その後主人公は、少しずつ記憶の断片を取り戻し、最終的には自分の正体に気づくのですが、その過程で記憶喪失の事実を告白したのは、山中の男を含め数人しかいません。記憶喪失を隠し、仮のプロフィールを作ってその人物を演じ続けるのです。記憶を取り戻した時、山中の男は既に生活基盤を別にしていて、主人公からは簡単に連絡が取れません。彼はずっとその男を探し求め、最終的にある極限的な状況の元で再会、「本当の自分」をかろうじて告げることになります。
 ミステリーとして読んで普通に面白い訳ですが、わたしが一つ引っかかっていたのが、主人公が度々「自分はゲイなのではないか」と疑う点です。
 このゲイ要素というのは、話の流れだけを見ると、さほどの必然性が感じられません。そればかりかむしろ余計な夾雑物で、純粋に「偶然に出会った二人の友情」として構成する方が自然に見えます。この作品を読んで同様の感想を抱いた人は少なくないのでは、と思います。
 実際、彼が明示的にゲイとして行動する場面はほとんどありません。最初に山中で出会った男に対する気持ちが恋愛感情なのではないか、と自問しますが、ある感情が「恋なのかそうでないのか」という問いは同性愛者でなくても成り立つ、ある種普遍的な命題です。また、主人公がサバイバルする過程で出会った老人がゲイであり、自分に好意を持っているのではないか、と疑う下りがありますが、ここでも同性愛要素が必然というほどではありません。なければないで、この下りは描けたでしょう。ラスト近くの回想シーンで、かつて自分が男性に憧れとも恋慕ともつかない気持ちを抱き、一度だけキスしたことを思い出すのですが、この下りも恋愛的要素を一切排除して純粋な敬慕として描いても成り立ちうるものだったでしょう。
 わたしが編集者だったら「先生、ゲイ要素要らなくないですか?」と言いたくなってしまうような、奇妙な不整合がここにはあります。
 ということは、筆者はどうしてもこの要素を入れたかったのでしょう。あるいは「入れなくてはいけない」という、迫り来るものがあったのかもしれません。何か違和感がある。その場所にセクシュアリティの問題がなければいけないのだ、と。

 今、セクシュアリティと言いましたが、セクシュアリティとは正にこういうことです。
 セクシュアリティについての模式的理解として、sex orientation、性的志向へと還元してしまうような語らいが多く見られます。新書的なとりあえずの理解として、異性が好きだとか同性が好きだとか、あるいはどっちでも良いとか、そういう漫画的なわかりやすい話が好まれるのでしょう。
 その志向が先天的だとか構築的だとか、脳がどうだとか、そうした議論ばかりが増殖していき、ついでに言えばかつての構築主義的(左派的・理知的)な傾向に対しこの頃は器質還元論的・本質論的な論調が優勢であったりはしますが1、とにかくそんな話はすべて、性的志向への還元が終わった後のことです。
 しかしセクシュアリティというのはそんな安っぽい話ではありません。「この感情は恋なのかそうでないのか」という中学生的な甘酸っぱい問いと同様に、「わたしが何を好むのか」はまず問い、疑問として湧き上がるのです。
 人を好きになったらお腹が赤くなる、とかいう仕組みでわたしたちはできていません。ある者、あるいは一つの性(として認識されているもの)に対して恋情なり性的欲望なりを抱くとして、それは間違いようもない事実として最初から示されているのではありません。「わたしって彼のことが好きなのかな」という中学生は、「絶対好きだよ!」という第三者によって、自らの恋情を規定するのです。二者関係やお腹の中や血中ホルモン濃度によって決定される訳ではありません(勿論相関性はあることでしょう!だから何だ、というだけで!)。
 「いや、そんなことは間違いようもない」と言われるかもしれません。少なからぬ人々にとって、その点は疑いようもないこととして既に十分に刷り込まれていることでしょう。それをナイーヴに社会構築論的に説明しようとは思いません。社会がコードとして規定している面は勿論ありますが、わたしたちはその雛形に対し単純に従ったり抗ったりするのではなく、既にあるディスクールの中に一つの異物として呼び出され、無限のヴァリアントを含む対応の異種として自らを再-規定していくのです。寄る辺ない不整合なものとして自らの存在に気付いてしまった者が、既にその流れの中にいる語らい、権力と知に対して、壊れやすいものとしての生をヒトの形に整えていく運動と言っても良いでしょう。
 極単純に考えて、行為に名前があったとしても、人の種類に名前がある訳ではありません。名前があったとして、それは手首を見れば書いてある、という種類のものではありません。例えばずっとヘテロセクシュアルとして生きている男性が、ある時何かの流れで男性と寝る、ということはあるかもしれません。この時、その行為はホモセクシュアルな行為となるでしょうが、その人物がヘテロだとかホモだとかバイだとか、その一点で決定されるものではありません。「自分は実はゲイなのではないか」という問いは湧き上がるかもしれませんし、更に「いや、あれはちょっとした間違いなのだ、自分はヘテロなのだ」と自らに対し論駁するかもしれません。
 そうした運動の全体をセクシュアリティは示しているのです。
 再-規定の結果の部分だけなど、瑣末な問題に過ぎません。再-規定が再再-規定ともなり得りえて、その自らに対する宣言が単に宣言に過ぎないからこそ、ホモフォビアやミソジニーが外壁として利用されるのです。そうした壁や柱で自らを支えなければ、問いが常に開かれたままであること、再-規定が何度でも反復されることが剥き出しになってしまうからです。問いが繰り返されることは人を不安にさせますし、しばしば社会的な生産性を下げます。場合によっては社会的生命にも関わることでしょう。だからその問いにはもう答えが出たのだ、終わった話なのだ、としておきたいのです。

 ですから、記憶喪失の男が記憶を取り戻していく物語、自分が本当は何であったのか思い出す物語の中にセクシュアリティが介入することはある意味自然ですし、正確に言えば、ある種の不自然さとしてそこにあることが自然なのです。ある時突然、自らの腹の中に黒い深淵を発見してしまうことがセクシュアリティなのですから。
 整合的に綺麗に理解されている世界の中に、何か不揃いなものが見える。カメラのレンズにかかる影が自分の指であったことに気づくように、そこでわたしたちは、世界の中にモノとして投企されている主体を見つけるのです。
 この頃流行のような器質還元論、本質論的議論をナイーヴに受け取っているような人は、性的志向と脳の関係性などを持ち出すかもしれません。あるいはそうした要素はあるのかもしれません。多分あるでしょう。権利上別の問題ではありますが、性自認について幼児期の脳に相違が見られる、と言った研究もあるようです2。しかしそれとこれとは全然別問題です。ある器質、身体的要素を負って生まれてきたとして、それを自らがどう捉え認識し、社会的存在として自己を規定していくか、という次元の話をしているのです。この規定は一回で終了する「自己規定宣言」のようなものではなく、たとえ宣言しても次の瞬間には既に問いにより蝕まれていくような、そうした種類の問いです。完全な言文一致が理想気体のような仮構に過ぎないように、規定する度にその規定は揺らいでいきます。
 それは「自分は本当は……」として開かれる深淵なのです。自分がそもそも誰だったのか、思い出す運動と言って良いでしょう。その思い出す先に、紛れもない頑然たる事実がある訳ではありません。勿論、事実は事実としてあります。記憶喪失の文脈で言えば、ある男が戸籍上何という名前で、どこで何をして暮らしていたのか、という「歴史的事実」はあるでしょう。しかしここで思い出そうとしているのは、単に「客観的に見た」事実に留まるものではありません。「わたしが誰なのか」という問いは「わたしにとってわたしは誰なのか」という問いなのですから。
 わたしたちは自分の身体を「テスト」することはできます。簡単に言えば、ある人物が男性と寝てみたり女性と寝てみたりすることは可能でしょう。そうした検証や自らの内に沸き起こる感覚などが、「自然」を証明する、と考えている人々は少なくありません。しかし勿論、この「自然」は様々な社会的・生理的要素が複合した結果でしかありませんし、「テスト」が完了するということはありません。単に「もうテストはしない」と宣言することが可能なだけで、宣言は常に社会的・言語的な水準で行われます。それは「自然」と無関係なものではありませんし、確実に「自然」の欠片をフックしてはいるのですが、そのフックは不可能性としてしか象徴的次元の側には映らないことでしょう。C’est même par cet impossible que la vérité tient au réel.

 ところで最初に「ネタバレ」と書いたのですが、そもそもの作品名を書いていないこの場合、ネタバレという語は適当なのでしょうか。ネタバレというのは普通、作品名を明示した上でその内容を明かすものです。当然ながら、上で軽く紹介したあらすじは物語の一側面に過ぎませんし、この長い小説の中には他にも色々な要素があり、逆にただ構造だけを抽象すれば他にも似た物語はあることでしょう。
 だからこれは、ネタバレというよりはある種のクイズのようなものかもしれません。あらすじを紹介して「さて、この作品は何でしょう?」という遊びは多分既に存在すると思います。読書通たちがこぞって作品名を挙げあい、最後に正解が公開され、正解者にスポットライトが当たるのです。
 勿論この文中で触れた小説にも作者と題があるのですが、正解を明かしては本当にネタバレになってしまいますし、ミステリーでもあるこの作品に関して言えば、非常に無粋な行いになるでしょう。まだ読んでいない人にとっては知る必要もなく、知るべきでもないことで、そのうち偶然にその本を読んで、読み進めるうちに「あ、これはあの時のあれだったのではないか」と気付けば良いことです。別段最後まで気づかないでも問題ありません。
 人生にはそういうことが沢山あります。「あ、あの時あの人が言っていたあれは、このことだったのか」という経験です。
 正確に言えば、本当に「あれ」が「これ」なのかというのはわかりません。身近な知り合いの言ったことなら問いただして確認することもできるかもしれませんが、もう遠い過去のことかもしれないし、この世にはいない人の言葉かもしれません。
 ただ思うのです。「あれはこれだったのか」と。確かめようもない符丁を、依然宙ぶらりんの状態のままで。
 セクシュアリティとはそういうことでしょう。

  1. 社会と愛の話をしよう []
  2. 言うまでもなく、この両者が「別問題」とされるのはセクシュアリティが性的志向に還元された「後」の話で、更に言えば、「後」に限っても完全に独立の軸というのは仮構でしょう。しかしこの社会的約束事としての仮構すら一般に認識されていない現状で、とりあえずの防波堤として仮構を一旦「啓蒙する」という運動には意味があります。本当に重要なことはそこには何も含まれてはいませんが、世間というのはその程度のものです。 []



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする