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 良心の最初にして最後の敵、唯一の敵は、心だ。あなたの心、わたしの心だ。快楽の源泉であり、喜びと享楽の隠れ家であり、目の前の刹那的利益を求めるあなたの一部であり、あなたに美味しいものを食べさせようとし、良い服を着させようとし、楽しむためのお金を、時にそれをもって人の上に立つためのお金を手に入れさせようとする。
 心、それは悪の門であり、強欲で憎み羨望する。心は、視野が狭く利己主義的だ。専制者の心
は人をして専制者としようとし、仕返しする心は人をして仕返しさせようとする。心が、すべての悪の源泉だ。
 心の多くの過ちを、その過ちの主は、悪辣なるシャイターンのせいにする。世界のこの地域では、災厄の外的源泉としてのシャイターンについてばかり語られ、内なるシャイターンについてはあまり語られない。つまり、自身の心については。
 心はあなたを低め、動物的な地の性質へと堕とそうとする。魂は、その創造主に届かんと伸び行く。それゆえ、両者の間で争いが怒る。これが人間と呼ばれるものだ。
 人間は、心を飼いならし、人間性を増し、魂を高め、すべてを求める貪欲を滅し、自分以外の何もみない利己心を無くすか、心に従って進み心の羊となってしまうか、いずれかだ。
 羊の性質とは、すべての動物の性質で、食べ物がなくなるまで食べ続けるということだ。人間の中の動物のように。
 わたしたちは子供の頃、「満足は尽きることなき宝」と教えられたが、なぜそれは尽きることがないのだろうか。なぜなら、それが所有して並べたいような宝ではなく、少なく求め、この世を愛し、少なく欲望するという、満足から来る宝だからだ。この叡智が語られる度に、人々はこれが貧者のために作られた考えだと理解しているように感じる。しかし、満足は彼らのためだけのものではない。真の満足は、わたしの考えでは、ものを持ちながら欲しない者のものだ。いかにして欲しないのか? そのように学び、自らの心に教えることによって、だ。
 諸宗教はすべて、心に対抗する方策に満ちている。始終遊び呆ける代わりに、礼拝し主について考え、自らのものを貧窮者に施し、斎戒により、死ぬほど食べたいのに食べないということを心に教え込む。暑くて我慢ならないほど乾いていても、飲まないことを。視野の狭い者は、これらはすべて、主の満足のためだと思っている。主はわたしたちから何も必要としてない。主がこうなさるのは、ご自身のためではなく、わたしたちのためなのだ。
 これらすべては、表面的なことを越え、行いの深奥に入るなら、人間が理解することを助けることだろう。スーフィーや僧侶や、苦行者や修行者、ヒンドゥー教や仏教の修行者が理解してることを。彼らは現世を捨て、生の背後にあるより高き目標に代えているのだ。それは、啓発(エンライトメント)だ。
 ここで言う啓発とは、真理の光で照らし出すことだ。これは、心から解き放たれることなくして成し得ない。解き離れる必要があるのであり、心を殺すのではない。禁欲と忍耐と自負により、これに抗するのだ。上に述べたような者たちは、心は、この世の喜びを与える度に、より多くを欲する、という真理を理解している。より多く与えれば、より貪欲になる。より貪欲になれば、盲目となり、外のものを見ないようになり、広い世界に目を向けず、自分のことだけを見て閉じこもるようになる。
 もちろん、すべての人間がこのような道すべてを、必要なものすべてを控える苦行者や修行者やスーフィーの域にまで歩まなければならないわけではない。しかし必要なのは、心が自らの敵であり、人間性の敵であり、それに道を譲るたびに自らが堕ちていく、という真理を理解することだ。
 とても素晴らしい次のようなドゥアーがある。
 「アッラーよ、この世界を我らが手に与えよ、我らが精神に与えるなかれ1」。このドゥアーが素晴らしいのは、この世界を手放すのではなく、同時にまた、この世界を求めもしないからだ2。この世界における宿命として、それを必要とし、切望していることを認める一方で、それが究極の希望や野望ではなく、本能と本性を満たすためだけのものである、と断じている。最も裕福なものでも、その精神は手にしているものの内にはないかもしれない。貧しく哀れで困窮したものでも、現世のことしか考えていないかもしれない。
 では、心に対していかにふるまうのか? これに対し批判的であり、自由にさせず、その言語に対し、少なくとも終始耳を傾けることをしない。何であれ、心が求めたら、まずは戦い、分断し、十と言われれば二と返し、二と言われれば半分と返す。
 勝つか負けるかだ。

  1. リァル・・・蔀 リァリャリケル關€ リァル・ッル・韓ァ ル・言 リ」ル韓ッル館・ァ ル異・ァ リェリャリケル・・ァ ル・言 ルほ・畏ィル・ァ []
  2. 直訳すると「現世を売るのではなく、同時にまた現世を売るのでもない」 []