父性について(テイク2)

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 最も麗しく最も得難き我が最愛の娘。永遠にいと高くあらんことを願う我娘アリヤ・アル=イシーリー嬢、目の中に入れても痛くない幸せの泉、夢の港。彼女はこの本のこの行を書いている今、嫉妬にかられている。弟スィリームがやって来たのだ。彼がやってくる前から、彼女は他の子供たちと同様に、彼女が五年前にこの世にやってきて以来、この小さな家族の中でついている王座が脅かされるのではないかと、恐怖を感じているのだ。アルヤは嫉妬しているのだ。
 賢い子供というのは、政治というものを心得ている。親を満足させて欲しいものを手に入れ、間違ったことも多めに見てもらおうとする。正に政治だ。ところで、嫉妬にかられたアルヤはすっかり政治というものを見失ってしまっただろうか。いや、むしろ政治集会のようになった。例えば、スィリームのことが好きじゃないとか、彼に嫉妬しているとか、彼のせいで役を食われてしまった、などとは言えないことを分かっている。そこで、迷惑にならないであろうやり方をする。本当の気持ちがバレないように、こっそりと。それがバレてはいけない、ということを承知しているのだ。そういうことが、彼らの出会った最初の頃にあって、それから数週間が過ぎて彼のことが少し好きになり、最初の頃ほどではなくなったけれど、今でもその気持ちは持っている。
 驚くべきことだが、例えば僕がスィリームの隣に座っていると、もちろん彼女もやってきて僕たちと一緒に座る。だけれど、僕と一緒に座りたいとは言わないのだ。「スィリームの隣がいい」と言うのだ。もちろん、それが目的ではない。僕を独り占めされるのがイヤなのだ。まったくもって賢い政治的選択として、彼の隣に座りたいと言うのだ。例えば車の中では、「後ろがいい、スィリームの隣」と言う。つまりお母さんの隣だ。僕と母親で平等という訳だ。いつもスィリームに張り付いていれば、どちらも独り占めされることはないし、どうしてそうするのか言い訳する必要もない。彼の隣に座りたいのだから。「もう一年も、スィリームが来たらどうして仲良くしなきゃいけないのか、ずっと聞かされてきたでしょ。ほら、わたしはスィリームが好きよ。隣に座りたいのよ」。これが政治でなくて何であろう。それも相当世辞に長けた類だ。
 父性というものが自分の中に最初に芽生えた時の感覚は奇妙なものだった。五年前に娘がやって来た時のことだ。そしてこのちびっ子スィリームがやって来た時の新たなる父性の感覚も、奇妙なものだった。父性の感覚に気づき、それから段々と時間をかけて、父性の何たるかを理解していく。そして、やって来た子が大きくなるに連れ、これはまだまだ始まりだということに気付く。子供が大きくなればなるほど、父として求められることも大きくなっていくからだ。自分が象徴的存在になっていく。娘が自分の言葉を覚え、考え方も影響も受ける。彼女の選択や語彙にも影響する。自分の欠点すらも彼女の中に見つけ、驚き、すぐさまその欠点を治すか、隠そうと決める。とにかく、こうした総てを父性の経験として積んできたのに、スィリーム少年がやって来た途端、また一から学び直すことになったのだ。
 最初に彼に対する感覚で奇妙なものを見つけたのは、彼の誕生から数日が経った時だった。彼が一晩中泣いているので寝付くことができず、起きてみると、妻が僕のソファの上で寝かさえつけようとしていた(僕のソファなのだが、不思議にも彼は泣きやんでいた)。僕は行って「パパのソファに座っているのかい」と言った。その時突然、アルヤに対しては感じたことのなかった、継承という感覚に襲われた。アルヤが僕を継ぐということは考えたことがなかったわけではない(もちろん、広い意味での継承だ、狭い物質的な意味ではない)。しかし、息子が愛するソファにいるところを見た時の感覚は違っていた。映画や、時には現実で、こんな場面を見たことがあった。例えば父親が、会社や店や工場などを持っていて、息子が大きくなり仕事を覚えると、父親は、自分が苦労して一つずつ積み上げてきたものを息子が継いでくれることに幸せを感じる。アルヤも僕を継ぐだろうとはいつも感じていた。僕の魂を、僕の物語を。彼女はこれまで、僕について「お父さんはいつもこう言っていたのよ」と語り始める世界で唯一の人だった。しかし息子が、会社でも工場でも店でも王座でもお金でも何でもなく、ソファを継ぐと考えた時、男が息子に対して抱く感情は、娘に対するものとは違うのだ、ということを悟った。息子の子孫が僕の名を継ぐからかもしれない。神の望みあらば、僕の名が継がれていくのだろうか(率直なところ、それが重要なことだとは全然思っていないのだが)。あるは本能的なものかもしれない。僕と同じ男だからかもしれない。僕たちは「男同士」という訳だ。僕だけではなく、すべての人が、自分で決めたのでもないものを埋めこまれているのかもしれない。とにかく突然、混乱してきた。他の父親が同じようなことを考えるのかはよく分からないが、数週間前から、「アルヤと同じように他の誰かを愛するなんて、どうしてできるだろう」と考えていた。それから何も分からなくなった。本当にいつだって、僕たちの知っていることは知らないことより少ないのだ。命あれば、次に何を学ぶことやら、目にすることになるだろう。
 子供がいることで最も不思議なのは、自分自身が至上の目的であった人生が、彼らが目的の人生となり、自分だけのものではなくなっていく、ということだ。驚くべきことだ。自分の人生の一番大事なものを、子供をもうけた途端に、彼らに与え、それからしばらく経って自分が死んで子供たちが大きくなると、自分たちの受け継いだものを子供たちに与えようとする。一番頭の良い人達が、自分の学んだ偉大なもので何かをるうのではなく、大学の先生になるのに少し似ている。あたかも教育の目的は教育で、大学の目的は大学であるかのようだ。ここで話している内容で言えば、自分の人生の最大の目的が、自分ではなく子供たちになるのだ。
 心惑わされることだ。主が人間なしで創られた世界で、誰もが本能から子供を作ろうとし、惑星を埋め尽くすまでになるとは。この惑星を破壊するところまで行くかはアッラーのみぞ知るところだ。
 娘が少し大きくなり、自分の周りに起きることを認識する人間になり、耳に聞こえることを理解し、世界についての理解を構成すべくすべてのものごとを結びつけようとするようになった(彼女より三十歳年上の僕もよく理解できていないのだが)この頃、僕の考えている難題はこういうものだ。何かについて彼女に話す度、自分の知っていることを説明したり教えたりする度に、何事にも代価というものがあり、タダのものなど何もない、という真理を痛感させられるのだ。例えば僕はいつも、誰にでもきちんと挨拶し、挨拶されたら笑顔でこたえるように教えている。娘が僕の言うことを聞き、幼稚園とかブランコのところにいる友だちのところに行って挨拶しても、返事をされない。子供なのだから、よくあることだ(その子の親は僕ほどに挨拶に興味がないのだろう)。すると娘はこっちを向いて、「挨拶しろ挨拶しろってうるさいから、ほら挨拶したわよ!」とでも言いたげに見るのだ。
 「横入りしてはいけないし、させてもいけない」と僕はいつも言う。でも大きな子が来て彼女を押しのけたりすると、僕が彼女のことを騙したと思いはしないか、不安になる。確かに僕はいつも、横入りしてもさせてもいけない、と言っている。でも彼女より大きくて背も高く強い男の子が来たら、どうするというのだ。するとここに、育てられ方に対して彼女が支払うことになる代価の端緒を見るのだ。残念ながら、僕に選択の余地はない。権利とそれに値する者、善、美、公正について教えない訳にはいかないし、それから彼女を、これらをあらん限り無視しまくる世界に放り出すことになるのだ。悪いことに、僕たちは、ほとんどの人が、こんな言葉だけのもの知ったことか、という時代に居合わせている。心の中に酷い割れ目が入ることになる(もちろん、僕だけの話じゃない)。彼らが苦しむことになる、少なくとも彼らの人生をより難しくすることになると分かっていることを教え続けるか。だが言ったように、選択の余地などない。それに、正しいことはいつでも間違ったことより難しいのだ。正義や善や美は、それを守って戦うに値する。
 そもそも、僕はどうして子をもうけたのだろう。単にこの世に人間を連れてきたかったのか、それとも彼らを自慢するためか、彼らを恵んで下さった神の前で恥じることのないためにか。
 以前結婚したばかりのころ、サミヤ・ジャヒーン(叔父サラーフの末娘)1に、この醜さに満ちた世界に子供をもうけるのが恐ろしい、と話した。僕たちが破壊し、今も毎日破壊し続けている星に。森がなくなり石油がなくなり、人間は増え食べ物は減り、政治家は腐敗し、名誉ではなく力が支配し、恐れと怒りを呼ぶものに満たされた世界に。この時のサミヤの返事は、僕の心に突き刺さって離れることがなくなった。彼女はこう言ったのだ。もちろん子供を産まないといけない、そうでなかったら誰が産むの。誇り高く志ある者を自認するなら、その人たちこそ子供をもうけないといけない、闇を照らすことを教えるために。わたしたちの後で、わたしたちのできなかったことをやってもらうために。わたしたちよりも良くなって貰うために。サミヤの投げかけた言葉を僕は味わい、飲み込み、受け入れた(あるいは、他の人達と同じように、どっちにしろ子供をもうけていたのかもしれないが)。ともあれ、この通り二児の父となった。僕をその手の内におかれる御方にかけて、皆さんの証人のもとアッラーに約束するけれど、僕は子供たちを、ただ名誉と良心と倫理に基づいてのみ育て、勇敢で悪を恐れず、他人の権利を犯すことは決してあってはならない、という原則のもとに育てる。義務を果たさないのは裏切り者であり、良心なき者は臆病者だ。ただ弱いということも、降参することだと教える。彼らに確言するが、自分のことしか見ない者は、見ることに値しない。
 これは子供のいる、もしくは将来子供をもつであろう諸兄へのメッセージだ。もし僕たちの子供たちを、いかなる犠牲を払っても、僕たちより良く、より誇り高く勇敢で、より強くできないのなら、僕たちは未来の試練に失敗したことになる。彼らに未来を任せ、彼らが続けてくれることを願う。
 
八ヶ月後

 安心して頂きたいが、アルヤはスィリームをすごく好きになった。本当に好きになった。時々焼きもちも焼くが、彼がいることで安らいでいる(焼きもちを焼いた時には、キスして抱っこして優しく語りかけてあげれば、すぐにニコニコして終わりになる。簡単だね)。
 スィリームはまったく無邪気な子供で、笑うことが大好きで、いたずらっ子でお姉さん同様に明るく、お父さんのようにいつも好奇心をもって世界を眺めている。彼ら二人が、お母さんのように賢くなることを願っている。彼は窓から外を眺めるのが何より好きで、僕と一緒に通りを散歩するのがお気に入りだ(ストリートなヤツになることだろう)。眠るのが嫌いでベッドが嫌いだ。目を覚ますや否や、ベッドの柵を掴んで囚人のように叫ぶので、立ち上がることを覚えた。
 彼らと出会った時から、言いようもないほど大好きだ。彼らのために沢山祈っている。ほとんど常に。そして僕の祈りが受け入れてもらえるよう、また祈っている。
 
第三の献辞

 この本をアルヤとスィリームに捧げる。この世で一番素敵で、一番難しい君たちに。

  1. サーリフ・ジャヒーンは著名な詩人。イシーリー氏はジャヒーンの甥にあたるらしい []

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