相対性進化論序説解題

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 少し前に某所で恐るべき黒歴史、昔の映像作品の極一部をアップロードしました。
 そのうち一作については、当時も今も他に比べて評価されなかったのですが、今現在でも好きな数少ない作品です。この作品について身近な人に解説したところ、面白いと言われたので、自分の作品を自分で解説する、という超絶恥ずかしいことをやってみます。
 もう十年以上前のことですし時効でしょう! そもそもわたし自身よく覚えていないところもあり、現在のわたしが改めて見たものとしての、少し距離のある解釈、くらいで大目に見て頂ければ幸いです。

・ゴミ回収車のモチーフ、作業員のセリフ
 冒頭でゴミ=不要なもの、というモチーフが示される。
 またカメラ目線で作業員が「あいつはホンマに魚の腐ったみたいな目しよって」等と述べる。「魚の腐ったような目」=やる気のなさ、無気力、社会不適応という表現、及び魚というワードが示され、なおかつそれがカメラ目線で語られるということは、見ている者が「魚の腐ったような目」の誰か、と暗示されている。
 先取りすれば、魚とは劇場の外部にいて見ている者としての主体であり、画面のこちら側に視線が投げかけられることで、主体の析出から「こちら」が無傷でいられないことが示されている。

・核の冬
 外人部隊の傭兵の「裏切り」により「核の冬」が訪れた、という字幕が表示される。勿論ここでの「核の冬」とは文字通りのものではなく、実際「むしろ夏かもしれない」等とナンセンスなフレーズが続く。つまり、世界を統べるロジックの見えない、一つの象徴系に還元することのできない迷妄状態ということで、実際上はわたしたちの生きるリアルな世界である。
 同時にヤコブの格闘の下りが朗読される。ヤコブは神=世界を統べるロジックと接触するが、そのまま帰られそうになり、必死ですがりつく。「いいえ、祝福して下さるまでは帰しません」。
 主体は世界を一元的に解釈するロジックを求めるが、それは常に指の間からこぼれ落ちていく。世界は解釈される寸前で不条理に落ちる。

・魚のボヤき
 文字通りの魚が現れ、「死んだ魚」と自己紹介する。「会社でもやる気がないと言われる」等と、冒頭の作業員が言っていたのが文字通りの魚であったかのような語らい。
 ここでの魚=主体は、既に死んでいるのだが、死にきっていない、ゾンビ的存在である。魚は二つの死の間で宙吊りにされている。あたかも運命の奴隷でありながら、なおかつ自由意志が存在するかのように錯誤する主体として、わたしたちがこの世に生まれついているように。
 魚以外の作業員たちはまともに働いている訳で、見ている主体というこの一点を除けば、世界には秩序がある。つまり、世界を統べるロジックが貫徹し得ないのは、「わたし」が世界にいるからである。「わたし」さえいなければ世界には一貫性がある(ように主体には見えている)。なぜなら、わたしはわたしから見る世界を識ることが可能だが、わたし自身がわたしを含む世界=神にとって何者なのか、という問いには答えられないからだ。自分の背中に書かれた文字だけは読むことができない。
 また末尾で目のモチーフが示される。

・目の黒い外人だっているじゃないですか
 叫びのような声で「目が悪いからいけないんですか」「本ばっかり読んでるからいけないんですか」「目の黒い外人だっているじゃないですか」等と語られる。目は世界を見るもの、世界の開き、独我論的な始点であり、そこから世界を眺める、超越的な観察者たろうとしている主体が示される。本を通して世界を見るような、参加への怯え、参加していない主体とは何者なのか、という無限の問いが暗示される。
 主体は世界を観察したいのだが、同時に世界から取り残されている自身の存在にも気付いており、後ろめたさを感じながら、同時になんとかそれを肯定しようともがいている。
 「この魚は新鮮ですよ」とは、死んだ魚が本当の死に向かって墜落しながら、それでも尚わたしは生きているのだ、という叫びである。
 また、ここで叫んでいるのがヘッドギアを被った軍服姿の女であることが末尾で現れ、この人物が魚=主体を代理していることが示される。
 最後に魚が魚焼き器に入るのは、あたかも死者が火葬場に送られるようである。火葬場に送られた死者はそこで灰となり、本当にモノになる。魚は死んでいるが、まだ死にきっていない=新鮮であることにより己の価値を示し、死んではいるが死にきっていないものとして食されることで、己を越えた価値観の中で回収される。
 魚自身にとって死んで食べられるかどうかはどうでもいいことだが、人間にとっては大事である。同様に、人間である主体にとって、己がモノとなった時の価値は人間ならざるものの価値観の中で決定される。つまり、「わたしの人生は悲惨きわまりなかったが、神にとっては意味があったのだ、その意味をわたしは理解できないが」。

・恐竜が鳥類になる
 恐竜が鳥類に「進化」した、という子供の語らい。この説明自体は物語として理解できるが、一方で何かが少しずつ変化して別の何かになる、という語らいには不可解なところも残る。生物学の話ではなく、あるものとして措定されながら変化したとして、名の次元には時間がなく変化しないのだから、名と肉の間には必ず乖離が生まれる(書き言葉と話し言葉の関係)。名=象徴の次元は、常に変化する肉に怯えている。象徴の次元にいる主体は、自らが逃れようもなく肉と結びついており、それが灰になることで神にとっての意味が開示されることを、知りながら同時に恐れている(去勢不安)。

・水から上がってくる男
 空手着の男(後にアインシュタインとわかる)が水から上がってくる。魚類、両生類、爬虫類、のような(ナイーヴな)進化のモチーフが暗示される。
 また勿論、モーセ(ムーサー)の例を待つまでもなく、水から上がる、水から取り上げられる、とは英雄譚の基本構造であり、(意味のある)主体誕生の原型を示している(=この世にわたしが存在する意味)。
 余談ながら、日本語では「水から上がる」は「自ら上がる」も連想させる。

・吹奏楽の練習と統一場理論
 吹奏楽の練習風景が映されながら、「統一場理論」(勿論この作品の中でのパロディ的なもの)が字幕で語られる。「理論」は世界を統べるロジックだが、それは未完に終わっている。未完に終わったのは「弟子の裏切り」による。傭兵の裏切りとパラレルである。
 つまり、あと一歩のところで世界は一つのロジック=象徴系により解釈され得たのに、「何か」が残っている、「何か」が裏切っているが故に、無時間的ロジックに回収され切っていない。裏切っている「何か」とは、勿論主体である。
 吹奏楽の演奏が何度も途中で途切れることも、理論が貫徹していない=未完であることを示している。
 末尾でアリのモチーフが示される。

・アリだー!
 「アリのようだな」というアニメなどでよくある人を見下すセリフが、単にベンチの上に立っている奇妙な男のセリフだとわかる。しかもアリのようなのではなく、アリなのだ。世界をアリのように見る観察者の視点は意味を作り出し万能感を生むが、そう語っている主体自身は世界の外部に温存されており、その姿を傍から見ればみっともない狂気の男でしかない。

・アインシュタインとラッセル
 アインシュタインとラッセルを模した男が森の中で会話している。「春が来ないな」「もう夏だからな」。アインシュタインは水から上がってきた男であり、英雄であり、理論
世界を統べるロジックが既に完成している、と主張している。しかしラッセルは何か残りがあることに気付いており、「空耳」を聞く。何か理解できない声が外部にある。それが魚=主体から来ていることをラッセルは薄々感じている。
 「宣言しても良いのではないか」とは、ラッセル=アインシュタイン宣言のパロディ。平和を宣言しても良いのではないか、とは、世界を統べるロジックが存在することと同形である。また平和の象徴=鳩、鳥のモチーフが挿入される。
 「何か残りがあるのではないか」と言ったところで、爆弾のようなもので二人が消し飛ぶ。

・魚屋と車椅子の男
 本作中のピークとなる場面。前のシーンで爆弾が落ちたらしい下りに、「マッテ」という声がかぶり、窓の外で魚が蠢いている。主体は自分が残っている、世界の外部に取り残され、世界に参加するのを恐れていることをわかってもらいたがっている。
 魚屋と車椅子の男は、白と黒、正義と悪、天使と悪魔の関係であり、魚屋は魚が新鮮であると主張するが、車椅子の男=病人は「もう腐ってる」と主張する。主体には神の次元から見た意味がある、と言う天使と、そんなものはない、という悪魔。
 新鮮さの主張が「もうええわ!」と遮られ「腐ってるかどうかはともかく、死んでることは確かやね!」と車椅子の男。そう、魚は「死んだ魚のような目」をした死んだ主体=運命と生まれ持った象徴系に縛られた存在なのだが、まだ死にきっていない=自由意志を持つ主体であるかのように錯覚できる者なのだ。
 ここから魚屋は「進化しろ」「鳥になれ」と救済手段を変える。魚が死んでいるとしても、鳥になれば救われるではないか、という訳だが、魚は飛べないので、結局その希望は断ち切られる。
 つまり、未来=進化という救済は失敗に終わる。

・死にかけた魚
 息も絶え絶えの魚が新聞紙の上を蠢き、「ラディン様、助けて」と言う。未来による救済が失敗して苦境に追い込まれている。

・催眠術の語り
 催眠術の声が聞こえ、己の過去、記憶の中へと遡ることを促す。つまり、未来による救済が失敗したので、過去による救済が試みられている。
 「どうしてこんなことになってしまったのでしょう」「何か始まりが、原因があったはずです」。
 「原因はうまくいかないときにしかなない」(ラカン)ではないが、わたしたちが原因を考えるのは、何かがうまく行っていないからである。魚=主体は自らの存在に苦しみ、そもそもどうしてこんなことになってしまったのか、その始原に遡ろうとする。
 同時に、アブラハムの系譜の下りが朗読される。○○の子○○の子○○、と遡るのは、主体の存在を系譜と過去によって基礎づけよう、という試みである。
 最後に催眠術は子宮の中の自分を思い出しなさい、と語り、そこで意味が発見されかけるが、魚屋と車椅子の男の両方に否定される。鳩=鳥のイメージが挿入されるが、それは魚を越え鳥へと進化した「意味ある自分」が過去にあった、ということである。催眠術の男は「あなたの存在には意味がある」とナイーヴに自己啓発的に誘導しようとするが、天使も悪魔もこれをペテンと見破っている。
 そしてそもそも、魚類なので子宮ではない、というツッコミが入り、過去による救済も断たれる。

・走る「傭兵」
 ヘッドギアと軍服の女が魚をかざしながら走るが転ぶ。同時に、傭兵が仲間のために急いだのに、自分がいなくても既に勝っていた、という字幕が流れる。
 主体は、主体さえいなければ世界がロジックで理解され得ることを知っているが、同時に自らの存在を完全に無化してしまうことを恐れている。自分さえいなければ、と言いながら、どこかでまだ、自分がいることにも意味があるのだ、と思いたがっている。

・猿の母娘と傭兵
 猿の母娘は家族ロマンスを暗示し(主体の意味)、そして傭兵が単に外人=外部の者になりたかった、という語りが示される。
 主体は世界を観察したいが、外人=絶対の超越的観察者になどなれない。

・死にかけの魚とアリ
 言葉を失った魚がうごめくと、アリが口から出てくる。アリは何か大切なもの、すっかり意味を剥奪された主体の魂の欠片、最後に残るものである。
 遠くで教会の鐘が鳴る。

・魚の治療
 死んだ魚に、電撃や針、ドリルなどの拷問的治療が施される。
 未来の救済も過去の救済も断たれ、主体は自らをモノとして差し出し、自らの意味を神に問いかけている。己を犠牲として捧げ、命を投げ出すことで、己が存在した意味を神に尋ねている。
 同時に兄と弟がA町とB町からそれぞれ出発する、という、小学校算数の文章題のような語りが聞こえる。ただの文章題だが、この兄弟は一瞬すれ違うだけで、永遠に出会うことのできない悲しい関係にある。
 原因=意味が求められが、出会いは失敗に終わり、永遠にすれ違う。
 抹消された主体と対象aとの関係がファンタスムを構成するが、この幻想は永遠のものではなく、ある種の勘違いであり、性関係は成就しない。

・今夜か
 夜の無人駅のホームでヘッドギアに軍服の「傭兵」がうとうとしている。男が一人やって来て「今、夜か」と尋ねる。電車がやって来る。
 傭兵=主体が既に彼岸におり、本当の死、最後の死に向けて旅立とうとしていることが暗示される。

・ゴミに積み込まれる魚
 一瞬だが、死んだ魚がゴミとしてゴミ回収車に積み込まれる場面が映る。死んだ魚はとうとう本当に死に、要らないモノ=ゴミとなった。

・森で倒れている二人
 アインシュタインとラッセルが森で倒れている。爆弾でやられたのか、物語は既に彼岸の領域に達している。

・去っていくアリ
 兄と弟の物語が朗読されながら、アリが砂糖の粒を運んでいく、非常に美しい場面。
 未来も過去も魚を救わず、モノとして己を犠牲に捧げた後、魚は死んだが、魚から出てきたアリ=魂の欠片が、何か大切なもの、何か残りのものを、どこかへと運んでいく。
 同時に「何になったのか、呼ばれるままのものに」という声。魚=主体は何者にもなれなかったのかもしれないが、その断片はアリによって次に運ばれ、魚=主体はただ、(神に)呼ばれるままのモノとなる。

・燃える魚
 彼岸へと旅立った後、こちらの世界に残されるのはモノとして死体だけである。魚が燃えていき、その周りをアリが逃げ惑う。アリはもう、大事なものを持ち去った後である。

・清掃工場
 ゴミ回収車が清掃工場に向かっていく。清掃工場とは火葬場であり、魚焼き器であり、魚=主体が自らをモノとして差し出し最後に行き着く場所である。主体は自らを滅した結果、神から意味をもって呼びかけられたが、その時もう主体はこの世界にはいない。
 ラッセルが聞いた「空耳」の語が最後に回収される。空耳とは、聞いたような聞いていないような、一瞬で通り過ぎて二度と遡ることのできない声=意味であり、奇跡である。

空に耳のある限り
海に眼差しのある限り
春は来ない
すでに夏
選ばれず
回らず
変わらず
ただ呼ばれ、答える
おれはハトバス
わたしはカモメ



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