『良いテロリストのための教科書』外山恒一

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良いテロリストのための教科書

 外山恒一の新著『良いテロリストのための教科書』です(以下敬称略)。
 当初の案では「愛国者のための左翼入門」だか、そんな感じのタイトルだったらしいですが、版元の意向で外山が街宣でよく使っている「良いテロリスト」というフレーズを入れたようです。
 この版元が版元なので、その時点で「絶対買わない」という方もいらっしゃるでしょう。わたし個人はそこまでの思いもないですし、そもそも不買という闘争手段を心底馬鹿にしているので、普通に購入致しました。
 版元の問題ということでは、タイトルがどうとか思想性がどうとか以前に、表紙のデザインが酷すぎます。噂では版元の社長さんが撮影された写真のようですが、野本由佳子撮影による挿入写真の一枚を表紙採用するだけでもグッと良くなった筈です。尤もその辺は販売戦略?にもよるのでしょうし、わたしのセンスがズレているだけで、意外とこういう方が売れるのかもしれません。嫌な世の中です。
 また本来、これだけの内容を売り出すなら、(外山本人にとっては不本意かもわかりませんが)ちょっとした文化人にでも頭を下げて帯と解説を書いてもらうのが普通でしょう。版元さんとしても商売である以上、多少は考えたのでしょうが、まぁ難しかったのでしょうね。それならそれで、いっそ桜井誠にでも(ボロクソにけなす内容を)書いても貰ったらパンチがあって面白かったと思いますけどね。

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 さて肝心の内容、いきなり小学生のような感想で恐縮ながら、めちゃくちゃ面白いです。
 わたしはまあまあ外山恒一の文章を目を通している方ですし、以前からその筆致の巧みさには感嘆していたのですが、想像以上の出来栄えでした。外山恒一の文章は節回しやキメに妙があり、どちらかというと元々は韻文タイプの人ではないかと想像するのですが、そのせいか、これまでの著書ではツカミは完璧ながらも尻切れトンボ的な構成や、オーケストレーション的?な妙では100点とまでは言えないものもあったのですが、この本は末尾までずっと冒頭のテンションが維持され、尚且つ全体の構成・骨組みが明白でキチンとオチています。
 左翼運動の歴史、とりわけ日本の学生運動・政治運動史を時系列で語り明かしていくものですが、類書のないもので(需要がないからでしょうが)、尚且つこれ以上のものが今後作り出せるとも思えません。
 自作自演インタビューという形式は、個人的には鼻につくというか、はっきり言って嫌いなので、最初は警戒しながら読み始めたのですが、まるで不自然さもなくグイグイ引き込まれます。この弁舌が巧みすぎるので、その道の専門家から見れば多少は正確性が犠牲にされている箇所もあるのかもしれませんが(しかし外山以上の「専門家」が日本に何人いるのかは疑問)、これだけ明晰判明で牽引力のあるストーリーがあれば総べてが許せてしまいます。
 外山恒一はストーリーテラーというか、活弁士のような才に満ち溢れた人物です。本人は「書く人」と言っていますが、例の都知事選動画からも明らかなようにパフォーマーとして一級であり、書き物と言ってもまるで口頭でまくし立てるような語り部調で、頭で考える前に聴覚的に入ってくるタイプの文体です。世が世なら浪曲師にでもなっていたかもしれません(実際彼にはストリートミュージシャンとしての面もあるのですが)。
 果たしてこの本がどういった層をターゲットにしているのか、版元の思惑?通り「愛国者」に売れるのか、正直言ってマーケティング的には総べてが中途半端で、結局外山恒一ファンと一部の左翼界隈の人にしか売れない気もしますが(失礼)、左翼だの学生運動だのに全く興味のない、世界史ファンとか歴史好きが読んでも間違いなく面白いです。単に読み物として消費するだけでも結構なのではないでしょうか。
 外山は図式化・模式化して説明するのも巧みで、四象限図で分析するような語りも上手いのですが、本書の例で言えば生年と「発症」時期(政治運動に目覚めた時期)から解き明かすのには膝を打ってしまいます。1965年から1975年くらいに生まれた政治運動へのハードルが低い世代が、無害化・PC化するノンセクト・ラジカルに飽き足らず早期発症した「ドブネズミ系」、遅れて目覚めた「パヨク」など、極めて乱暴ですが読ませます。
 ストーリーというものには勿論、危険性もつきまといます。物語化するということは、その向こうで抜け落ち不可視化されていく事象が必ずあるからです。四象限図で思想を分類するようなやり方は、外山に限らず色々な人が試みているわけですが(柄谷行人もやっていましたよね)、こうした方法は非常に「わかった」感がある一方、そこで提示される物語が色濃くなりすぎて、ニュートラルな目線が失われ、見落とされてしまう部分も出てきます。本書のような「面白すぎる」本に向かう時は、こうしたリスクを重々に織り込んで、程よい距離で読み解いていくのが正解でしょう。

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 大雑把な流れとして、ざっくりとした社会思想史からマルクス・レーニン主義、アナキズム、日本の共産党、社会党、そして1956年のスターリン批判を受けての新左翼の誕生、と話が進んでいきます。1960年安保闘争におけるブントの異色性(対米従属ではなく日本の軍事的独立に反対)、1963年の革共同から中核派・革マル派への分裂に始まる離合集散とノンセクト・ラジカルの発生、60年代末から70年代初頭にかけての全共闘。そして1970年の華青闘告発。この華青闘告発が非常に重要なターニングポイントになります。
 このあたりの事情は『1968年』(すが秀実)にも詳しいので併せて参照すると良いのですが、華青闘とは華僑青年闘争委員会で、在日中国人の青年組織です。反差別運動に取り組んでいたこの組織が、日本の新左翼は反差別への取り組みが足りない、日本人は近隣諸国を侵略した抑圧民族という自覚が欠如している、と批判したのです。これに同調した一般参加者の声におされて主要党派は自己批判を迫られ、以後、諸党派は言わば「反差別競争」のような状態に陥り、また「差別摘発」がヘゲモニー闘争の手段として用いられることになります。つまり他党派を批判する手段として、些細な言動をあげつらって差別発言として糾弾するわけです。
 この事態が深刻なのは、自らの無自覚な差別性をも克服する努力には際限がない、ということです。内面の罪を抉り出し削ぎ落としても、その行い自体を偽善と疑う懐疑が際限なく連なるように、差別告発の内面化には果てがありません。これが極限的な形で具現化したものとして、東アジア反日武装戦線に外山の筆は至ります。彼らは全共闘的な自己否定を推し進め、日本人すべてを「侵略民族」として糾弾、ベトナム反戦を叫びながら安全圏で命の危険にも晒されない卑劣さをあげつらい、結局、死者8名負傷者376人を出す1974年の三菱重工本社ビル爆破へと帰着するのです。
 こうした反差別の自意識は、いわゆる自虐史観や、その後のPC、外山の言うところの「ヘサヨ」的な運動へと連なっていきます。東アジア反日武装戦線は非常に極端なテロリズムへと陥った訳ですが、中途半端なところで留めたのがPC左翼であり、更に外山いわゆる「スターリニズム化・左傾化」した社会を作り出しています。そして60年代学生運動が「試合に負けて勝負に勝った」と外山が言うのは、確かに短期的革命運動としては挫折しましたが、社会全体の「正義」醸造という点では、今日的な支配的観念へと確実に波及している、という意味においてです。

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 華青闘告発から東アジア反日武装戦線という思想的な流れは、歴史的な転換点というだけでなく、構造的な一つの縁を為しています。おそらく外山個人の内面においても、非常に重要な核を形成しているものでしょう。外山もわたしも華青闘告発時点では生まれてもいないのですが、その内的過程はよく理解することができます。なぜなら反差別の内面化、罪の際限のない洗い出しという展開は、ある種の理性的手続きを進めていけば必然的に突き当たる境地だからです。
 だからこそ東アジア反日武装戦線を巡る一連のエピソードには、左翼運動史の一事件に留まらずはるか時空を隔てた人の胸をも打つものがあります。少なくとも、近代的主体を持つ者であれば誰もが、ある種類の誠実さを極めようとすれば、必ず自らの内に同じものを発見するのです。外山は単に例として「経験なクリスチャン」を挙げていますが、これは正しく宗教的な問いであり、より正確には、近代と信仰というものが出会う時に構造的に帰着し暴き立てられる、世界の最底部と言えます。
 先に外山をストーリーテラーと言いましたが、ここにおいて、物語が一つの綻びを見せます。批判しているのではなく、破綻することによってこそ、物語は物語以上のものになるのです。滞りなく収束する物語はよく出来たエンターテイメント、神話的構造の焼き直しに過ぎませんが(勿論それはそれで多いに価値がある)、そこに何か綻び、うまく行かないもの、目の中の糸くずのような猥雑なものがよぎる時、物語の向こうの実相が仄かに垣間見えます。本書で言えば、この下りにおいてのみ一瞬だけ、我々自身の主体が外山恒一の主体と不可能な接触を果たします。この「あるはずのない」場所で唯一、物語は文学になるのです。
 柄谷行人が三島由紀夫の金閣寺について「あれは文学ではない、金閣寺を燃やしたところで終わっているではないか。文学とは燃やした後を描くものだ」と言った、という話を聞きました(申し訳ございませんが、又聞きで知っただけなので正確な出典がわかりません。もしかすると言ってないかもしれません)。誰だって、金閣寺を燃やすところまでが知りたいです。なぜそうなったのか、その展開、ストーリー、心理、理解できる辻褄というものに興味を持つのです。ワイドショーだって、「あのおとなしかった彼がなぜ」と語ります。燃やした後のことは知りません。もう燃えちゃったのですから、仕方がないじゃないか、というものです。しかし放火犯の人生はまだ続きます。すべてが終わっても、まだ何か終わってないものがあります。そこには物語も盛り上がりも展開も何もありません。語るべきものは何も残っていません。ただ、意味を剥奪された剥き出しの生があるのです。
 もう語るものがなくなってしまったこの場所にこそ文学は立脚する、とわたしは信じています。世界の実相に物語はないのです。
 しかし実相そのものを直接に語ることはできません。語り得ないものだからこそ、それは世界の底であり、輪郭であり、縁なのですから。語り得るのは世界の内部に起こる事象のみです。だからわたしたちは物語を使うのです。物語が遂に尽き果て、倒れる、その臨界点を抉り出す為に。
 本書はストーリーとして素晴らしい作品で、実に知見に富んでもいるのですが、本当に見逃してはいけないのはこの一点です。少なくともわたしには、ここでこそ外山そのものとすれ違ったという勝手な確信がありますので、ここからは少し、その点だけについてわたしの言葉でお話しさせて頂きます。

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 この華青闘告発から始まる流れが象徴的に抉り出した問題意識、内面における差別のあぶり出しは、今日のPC的風潮に連なってもいるものですが、まず大前提として、わたしは「行き過ぎたPC」を批判はしますが、それは単に量的過大を指摘しているのではないし、PCそのものは基本的には「良いもの」です。テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗でも触れていますが、外山もまた「PCというのは基本的には正しいから、正しいものを批判するというのは難しい」といった内容を語っています(一つの正義が無前提に世界全体を隈なく覆い尽くすことを批判する、という形に外山なら躱すでしょうし、わたしも同感です)。PC批判にしても、PC的基準を一定程度満たして初めて成り立つ「PCを越える営み」でなければならず、ただ単にPCは息苦しいからイヤ、面倒臭い、などと言っていてはPC以前、その辺のネトウヨと変わりありません(ちなみにアンチフェミにしてもフェミの補完発展として初めて成り立つもので、単なる反動ではお話になりません)。下世話な話として、東大卒が学歴社会を批判するならまだしも、高卒が吠えても負け惜しみにしか聞こえない、というのもありますが。
 色々なところで何度も書いていますが、PCというのは約束事なのです。「たかが約束、されど約束」です。社会と愛の話をしようでも書きましたが、今見失われていっているのはこの約束の次元、それを約束として捉える、象徴的な水準で認識する、という目線です。
 ある人々は、約束を世界そのもの(イマジネールな意味での物質的実際)のように錯誤し、金科玉条のように掲げます。またある人々は、それが世界そのものとは異なることを指摘し、「だからそんなものには意味がない」と言います。どちらにも言葉の次元が欠けています。約束はたかが約束なので、世界そのものを映し出してなどいませんし、物理法則でもありません。しかしだから無意味かと言えば、わたしたちはその約束を通じて関わり合っているのであり、今現在目にしている約束がいかに馬鹿げたものに見えたとしても、それなりな経緯の末に今があるのです。「商流」や物理的な川の流れと同じで、永劫不変のものではありませんが、一時にパッと変えようとして変えられるものではありません。無理を通せば道理が引っ込みます。下らない約束でも、守りながら少しずつ変えていく、あるいは勝手に変わるのを待つしかありません。それが物質的世界と一致しているかどうかなど全くどうでもいいですし、はっきり言えば一致などしている訳がありません。
 黒人と白人で身体的ポテンシャルが(マクロに統計的に見れば)違うのは自明です。頭も身の内ですから、全体を均せば脳だって有意な差があるかもしれませんし、そうすれば「人格」やら「心」にも違いがあるでしょう。でも、だから何なのですか? 人種的平等とか人権とかいった概念は、言葉の世界にあるもので、約束事です。約束は物質的な現実をそのまま映したものではないのですから、人種差別の不当性には黒人と白人の物理的等質性など最初から全然関係ないのです。
 男女平等についても全く同じことが言えます。それらは社会の流れの中である時点で採用された妥協点であり、永劫不変のものではありませんが、とりあえず今現在それなりの仲裁手段として機能はしているものです。男性と女性の物質的実際をつぶさに観察した結果に出された見解なのではなく、長い時間をかけて社会的に醸成されてきた約束事です。
 「だとしたら、『科学的』事実に基いて約束を変えていけば良いではないか」というのは、一見尤もですが、少なくともわたしは信頼しません。ある歴史的一時点において人間理性が見出した「普遍性」など、(主の導きの元に)長い時間をかけて無数の人々の営みが意識を越えて積み上げてきたものに比べれば、「枯れ具合」で到底及びません。
 勿論、世の中の多くの人々は物質的な(イマジネールな)わかりやすいお話が大好きです。だから彼らをPCを的な方向に説得する方便として、構築論的な仮説(人がタブラ・ラサであるかのような物語)が示されることがあります。しかしそんなものは、逆に物質的な根拠を元にして人種差別を正当化する論の裏返しに過ぎません。方便にしても低俗です。
 話がズレますが、個人的に身近な話題として、聖クルアーンのスーラトゥルフィール(象章)にある「焼け石の礫」とは、地球が誕生した時の隕石の雨を表している、という話をされたことがあります。彼なりに信仰の「科学的根拠」を示し、正当性を訴えたかったのでしょう。しかし信仰と地球誕生のプロセスには何の関係もありません。聖典の内容が「科学的事実」に合致しているかどうかなど、最初からまるで問題になりません(「科学的イスラーム」の問題と理神論参照)。同様に、「豚肉食が禁じられているのは食中毒の予防のため」のような理屈付けも全く無意味で冒涜的ですらあります。社会的な方便や融和策として様々な合理的説明を付することに意義がないとは言いませんし、個人的趣味としては文化的付加物に面白みを見出すこともありますが、本当のことを言えば後付けの屁理屈に過ぎません。
 こうした一見わかりやすい具体的事象で「説得」しようとするやり方は、どの分野であれオカルトでしかありません。物質的現実が象徴の世界に目に見える形で現れる、とする倒錯です。言葉は言葉の世界にあり、「たかが言葉されど言葉」です。言葉の「正しさ」は外部の根拠付けにより成るのではなく、他の言葉との関係から、象徴経済の網の目の中で決定されます。そうやってわたしたちのご先祖様からずっと、社会というものを保ってきたのです。
 後述しますが、PCを金科玉条のように掲げる極端な言葉狩りは、約束を世界そのものと取り違えた錯誤です。しかしそれを批判するのに、約束における物質的根拠の不在を示すのは、反転したオカルトに過ぎません。まずは約束を守り、約束との関係の中から、約束を変えていく(あるいは自然に変わるのを待つ)しか道はありません。

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 一つ余談を挟みますと、右翼左翼をどう定義づけるか、という伝統的に繰り返されてきた問題について、本書の中で面白い下りがあります。外山のオリジナルではない筈ですが(以前にどこで見たのか失念しました、松本健一だったかしら? オリジナルだったらごめんなさい)、理性を信頼するのが左翼、最終的に信じないのが右翼、また「正しい世界」を未来に見出すのが左翼、過去に見出すのが右翼、というものです。勿論こうした分類は「ストーリー」や模式的図解の一種で、わかりやすい一方、あくまで便宜的な一つの切り口として捉えるべきですが、語りの叩き台としてはなかなかに魅力的です。
 ついでに図々しく自分語りをさせて頂くと、最終的に理性を信頼しないというこの点において、わたしはメンタリティ的には明白に右派です。ただそれは思想的に狭義の「右翼」であるということとは別ですし、理性を信じないにしても最初からお手上げする訳ではありません。ある人に「理詰めじゃないんだということを理詰めで説明しようとする」と評されて苦笑いしたことがありますが、理性の限界を示すならまずは徹底的に理性的に考えてみる必要があると思っています(実践できているかどうかは大いに怪しいですが)。
 勝手な見立てではありますが、外山恒一もコアのところでは比較的似た構造を持った人物なのではないか、と思っています。尤も贔屓でそう見えているだけかもしれませんし、本当のところはわかりません。
 自分の話ばかりで恐縮ですが、理性を越えるものということでは、わたしとしては信仰のことを考えざるを得ません。
 ある場所で外山が信仰について尋ねられ、「狭義の信仰は持たないが何か理性を越えたものの存在は信じる」といった内容のことを語っていたことがありますが、その歯切れの悪さも含めて、腑に落ちるものがありました。わたし自身はたまたま宗教的環境で育ち、その後なぜか別の宗教に名目上も入ってしまっていますが、基本的には宗教など大嫌いで、ただ神様を信じているだけです。むしろ宗教の否定から不可知論、理神論、伝統宗教という経路で引き釣りこまれています。たとえ否定的にであれ信仰について思考してしまうのは信仰が気になっている証拠です。好きな子に意地悪してしまう男子状態です。それくらいなら外からガタガタ言っていても始まらないので、実践と生活の中で血肉をもって考え続けようとしている、ということです。メンタリティ的右派ということでは「宗教右派」と冗談を言いたくなりますが、宗教内ではほとんど極左でしょう。
 逆に、リベラルや左翼を自称しているけれど、ある部分になると無自覚に理性を放棄し情念的に振る舞う人たちが沢山います。大変失礼ながら、わたしはその情念や振る舞いの方を先に見てしまう「右派」なので、「ご高説を垂れているけど所詮ボンボン育ちのオッサンやな」「女に許可されたことしかできないんやな」と冷ややかに眺めてしまいます。とりわけジェンダー・セクシュアリティ的な場面に至ると急に腰が引けて十把一絡げ的に振る舞う展開は見飽きています。「それはそれ、これはこれ」と強弁するところにこそ、精神分析的な意味での否認が現れる訳で、底が知れるというものです。
 勿論開き直れば良いということではなく、単に粛々とプレーンに礼儀正しくやっていけば良い話です。「礼節とは構造化された無関心」とは誰の言葉だったか忘れましたが、これも約束事の世界で、身に近いものほど身から引き離して淡々とやっていくのが正解です。何事も大切なのは順番です。
 良くわからないことには触れないのが一番賢いですし、一方で人は去る時に「それではこの辺で」と挨拶するもので、黙ってどこかに行くのも失礼です。適切なクッションを入れて身を引き剥がすだけで、多くの問題をクリアできます。

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 本題に戻りますと、華青闘告発に始まり東アジア反日武装戦線において極北を見る差別と罪の問題系は、それ自体としては否定し難いものです。外山恒一もおそらくそう考えていることでしょう。

私は実は、華青闘による日本の新左翼への批判は基本的に正しいと今でも思っていて、彼らは日本の新左翼の”無自覚なナショナリズム”を指摘して批判してわけですが、ナショナリズムは否定されるべきものだという19世紀末依頼の”左翼の常識”を受け継ぐかぎりでは「すいませんでした」と反省するしかありません。

華青闘告発を普通の意味で受け入れて反省してしまうと、「反日武装戦線」に志願するか、中途半端なところで妥協してPC左翼になるしかないです。

 外山恒一はナショナリズムの肯定という方向でこの袋小路から脱しようとしているようですが、もう一段抽象度を上げて「自覚されざる罪への問い」ということで言えば、二つの対応があるとわたしは考えています。
 一つは具体的な断片に粘りつき、中途半端にやることです。外山恒一の言う「ヘサヨ」が行っているナイーヴな言葉狩りなどがこれでしょうが、個別的な言葉、個別的な問題系に罪を仮託し、それを一個ずつ具体化していくと、「贖罪」は時間軸上の延長を備えます。つまり、言葉を狩っている間に時間が稼げます。そうやって一つずつ粘着して罪を削ぎ落としている間に、時間が流れて歳をとって死にますので、めでたしめでたしとなります。些事に粘着し顔を伏せていれば、地平線に迫りくる無限の罪と直面しないでいられます。淵に滑り落ちない為の「抵抗」として、パラノイア的言葉狩りを利用する、ということです。
 本書後半で、2011年に素人の乱が主導した(祀り上げられた)反原発デモにおいて、「ヘイトスピーチに反対する会」が右翼の登壇を妨害した一件についての下りがあります。元々集まっていた人々も左派一辺倒という訳ではなく、少なくとも反原発というイシュー一つなら右派も左派もない筈なのですが、教条主義的な主張が繰り返され、結果としてこの流れそのものが疲弊し破綻していく契機となったと言います。この場面で彼らは、言葉ならぬ「ヤツら」を狩っています。何か違うもの、一つの筋に照らして受け入れがたいもの、違うもの、それを見つけ出して排除したいのです。純化の欲望という意味では、言い古されたことではありますが、レイシストも「ヘサヨ」も同じ穴のムジナに見えます。勿論彼ら自身は様々なロジックを駆使して否定するでしょうが。
 少し話がズレますが、本当はここで「同じ穴のムジナ」などと軽く言ってしまうのも違うのです。そういうお前はどの立場から物を言っているのだ、といつでも問えますし、問うべきです。「皆んな違って皆んなイイ」などとナイーヴに共存を謳っても話になりません。こうした言説は、結局のところ「違うけど一つ」な基体幻想をかえって強化するだけのものです。「人間」という概念すら、ある意味フィクショナルなものです。
 「多様性」などと口で言うのは簡単ですが、有象無象がごちゃごちゃと入り交じる状況は決して気持ちの良いものではありません。貧乏長屋育ちで人馴れを極めているような人ならともかく、(わたしも含め)左派にありがちな割合に恵まれた環境に育った人間は、自分で思っているよりずっと差異に弱いものです。自身の信じてきた最低限のコードすら当たり前に踏みにじってくる人間を前にして、軽々に共存などと言えるものではありません。一方でインテリは「嫌いだから嫌い」などと感情的になるのを潔しとしませんから(このこと自体は礼儀正しく素晴らしいことです)、排除や分離について色々と正当化を行うのですが、身も蓋もない「右派」のわたしとしては、背後にあるのは要するに「あいつ嫌い」程度のものだと正直思ってしまいます。そして「あいつ嫌い」は、理屈がない分拭い難いものです。
 精一杯頑張ったとしても排除の論理そのものを完全に払拭するなど夢のまた夢です。どこが分水嶺になるのかと言えば、結局、罪を拭うということを諦める点です。決して「開き直る」ということではなく、粘れるだけ粘るのは大前提ですが、どうしても一刀振らなければいけないならどこで使うか、という形で引き受けるのです。これが「自覚されざる罪への問い」に対するもう一つの対応に繋がっていきます。
 それは「自覚されざる罪」という形で無限に開いてしまった淵を一旦そのままに受け入れて、常に可能的に罪深い存在として、「これから何で手を汚すか」という視点へと転換することです。罪はもう禊ぎようもなく、どっちを向いても逃げられない、必然的な加害者性を背負っているのだとしたら、できることは加害者性を自覚して「人殺しの顔をする」ことです。そして後は、いずれにせよ汚れる手なら、何に突っ込んで汚すのか、そこに己を賭けるということになります。
 勿論、何で汚すのが「正解」なのかは(死んでみないと)わかりません。正解などないかもしれません。それでもわたしたちは尚何かを選ぶことができますし、選んだことに名前を書かないといけません。運命と自由意志が一つになるのは、この次元においてです。
 政治思想について具体的に語る資格はわたしにはないのですが、外山恒一が自覚的ナショナリズムという形で行っていることは、「反日武装戦線かPC左翼か」の二択からの脱却というより、反日武装戦線の正確な裏返しなのではないでしょうか。「無意識に否定はない(フロイト)」ではないですが、ある意味、二択の中から一つを選んでいるのです。机の下で密かに十字を切るように、加害者性を不可避の重荷として背負うことを意識的に選択している所作として、わたしの目には映ります。それが彼の精一杯の誠意なのではないでしょうか。

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 PCと言葉狩りのことを少し考えてみます。
 先述の通り、わたしは現行社会で進められている「お上品化」の何もかもが悪いと考えている訳ではありません。個別事例を取り上げられば、外山恒一も賛意を示さざるを得ない場合は多々あるでしょう。言葉狩りにしたところで、ある種の明白な差別用語について、その使用が一定の範囲で批判の対象になることは当然です。しかし何か、すっきりしないものが残ります。それはPCの実践というよりはPCが前提としている理路、背後で働いている世界観の貧困化から来るものなのではないでしょうか。
 何度も言うように言葉は約束事です。構造主義的な言語観を持ち出すまでもなく、言葉は意味ではないし、物質でもありませんし、これらと一対一対応している訳でもありません。素朴表象論のように、物質的な世界をそのまま写し取ったものではないのです。しかし一部のPC左翼は、あたかも意味が直接世界に張り付いているかのような、言葉一つ一つに直接価値が粘りついているような、パラノイア的世界像に囚われているように見えます。
 こうしたナイーヴな世界観が蔓延するようになった背景の一つには、「言葉はわかるもの」という思い込みがあるでしょう。明晰判明に「文字通り」に受け取ることができるのが良い言葉の使い方で、誤解の余地なく意味の同定できるテクストこそが優れている、という考え方です。「難しいことを簡単に説明できるのが良い教師」「晦渋な文しか書けないのは頭が悪い証拠」のような、「わかる」至上主義とでも言いたくなる、いかにも戦後民主主義的な思考様式です。
 『クルアーンを読む』中田考 橋爪大三郎で紹介させて頂いた、正典(カノン)に関する下りをもう一度引用します。

近代以前の日本の教育も、子供の時から四書五経を、正典を覚えていくという、すべての文明圏に共通するやり方でした。(・・・)正典というのは、専門の学者が読んだってわからないものですから、子供が読んでわかるわけがない。でもそれをまず覚えるところから学問が始まる。最初はわからなくても、そのうち少しわかるところを取っ掛かりにして、理解が進んでいく。だんだんとわかっていくということは、逆に、いままで自分がわかっていなかったということもわかってくるわけです。
(・・・)
ところが、現代の日本はそうじゃない。わかることを教える。かんたんなことを教える。そうすると、わからないのは自分が悪いのではなくて、説明できない人間が悪いというふうになってくる。(・・・)正典の効用は、自分にはわからないことがあるということを教えてくれることです。わからなくてもいいわけですね。どんなに頑張ってもわからないものってあると、人間というのはそういうものであるということをわからせてくれる。

 本当のところ、世界はわからないものなのです。わからないのが基本で、時々ちょっとだけわかることがある。わかったと思っても、後になってみればとんでもない勘違いだと明らかになる。「わかった!」という快楽は確かに至上のものですが、原則としてわからない中でたまに閃くから美しいのです。
 教育の上で、特に小さな子どもを相手にしている時は、まずは「わかる悦び」を教えて学習習慣を身に着けさせる、というのも一理あるかと思います。しかし少なくとも、ある程度の年齢に達したならば、わかって当然、のような甘ったれた考え方を棄てさせなければ、結局当人の知的向上の芽を摘んでしまうことになります。
 人は所詮、自分の狭い了見の範囲でしか理解などできないのですから、すぐにわかるものだけを相手にしていると、いつまで経ってもそのレベルから向上しません。本当に先に進もうとするなら、一旦はわからないことをそのままに受け止める必要があるのです。
 武術におけるわたしの師匠の兄弟弟子、わたしの叔父さん先生にあたる方に、ある時「わかるな!」と怒鳴られたことがあります(幸い、わたし個人ではなくその場に居合わせた全員に向けてでしたが)。「お前らなんかにわかってたまるか。どうせわかりっこねえんだから、今は黙ってそのまま覚えとけ。そのうちわかる時が来る」とのお説教を喰らいました。小学校の先生だったらそのままクビが飛びそうな暴言ですが、何かを学ぶ上でこうした姿勢はとても大切です。
 言葉の意味にしたところで、一つの言葉をそこだけ取り出してどうこうできる種類のものではありません。長大なテクスト群、それを巡るディスクールがあり、その全体をそのままに受け止め繰り返す内に、ある時ふと、その内部における意味が浮かんでくるのです。星座は星によって構成され、物質的に存在するのは星ですが、一つの星だけじっと見つめていても永遠に星座は現れません。一部だけ切り取って、勝手に自分の知っている領域に引きつけて我田引水な解釈をしたところで、何も理解できたことにはなりません。
 にも関わらず、「わかる」至上主義に毒されてしまうと、個別のワード一つひとつを取り出して、そこだけで意味や価値を同定できるような幻想に取り憑かれてしまいます。すぐにわかることに慣れきって頭がふやけてしまっているのです。結果、ちょっとでも「正しくない言葉」が使われると、ヒステリックな反応を起こして、鬼の首でもとったかのように一斉に袋叩きにすることになります。
 歪んだPCの暴走やナイーヴな言葉狩りの背景には、正典の喪失と「わかる」至上主義、そこから結果するパラノイア的世界観があるのではないでしょうか。何が正しくて何が間違っているか、そんな簡単にわかるものではありません。加害者性の引き受けとパラレルな構図ですが、所詮わからないのだ、という諦念を背負って初めて、宝石のように輝く「わかる」が手に入るのです。
(「わかる/わからない」については、上の記事と併せて、わからないことを畏れよ「わかり得る」砂漠カミングアウト言語などが関連しています)

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 すっかり我田引水で語ってしまいましたが、本書の中に以下のような下りがあります。

例えば”児童ポルノ”みたいなものはイカンと政府はいつの時代でも言うでしょうし、実際イカンのでしょうが、かつてはそれらが”風紀を乱す”から、つまり伝統的な性道徳を破壊するからイカンというような右っぽい根拠で取り締まっていたはずが、いつのまにかそうではなく、”女性の人権、子供の人権”が取締の根拠になってるでしょ。現在の”左傾化”はそんなふうにして起きているんです。

 こうした「左傾化」は日本を動かしている高学歴エリートたちがお上品な世界観で育っているからだ、といった説明が付されています。はっきり言ってこの一例だけをとるなら、個人的には「人権」で説明して貰った方が断然素直に言うことを聞けますが、勿論ここで言っているのはそんな話ではなく、ダメなものがダメにしても、その理屈付けにこそ核心があり、理屈付けが普遍理性至上的に過ぎると、結局それは一つの正義が世界全体を覆うスターリニズム的なものになってしまう、という主旨でしょう。勿論理性が要らないということではなく、世界そのものに直接意味が貼り付いているようなものとして言葉を取り違え、パラノイア的世界観に陥ってしまうことを警戒している、ということだと思います。
 馬鹿には普遍はわからない、でもそこがいい!で「人権概念は素晴らしいが、馬鹿にはわからない」という酷いことを書きましたが(笑)、要は方便の使い方です。もっと言えば、いちいち方便が要るように「わかる」至上主義を進めてしまっていることが問題です。「なんだかよくわからないけどアカン」ものが世の中にはあるのです。アカンものはアカンのです。なぜアカンのか、納得できれば一番良いのですが、よくわからない時はとりあえず保留にして距離をとっておけば良いのです。すぐにわかろうとするのが一番いけない。道にキノコが落ちていた時に一々拾って食べてみる人はいないでしょう。わからないなら変に触らないで黙って安牌を取っておけばよろしい。そのうちわかる日も来るでしょう。
 勿論、方便というものを世界から一掃することはできませんし、上手く使えば方便は大変便利なものです。方便が方便を越えて物理法則のように振る舞ってしまうことが問題なのです。
 世の中、表があれば裏があり、本音があれば建前もあります。両方あって初めて一つ、ぶっちゃければ良いというものではありません。それこそ「たかが約束、されど約束」というもので、方便は方便として使って良いのですが、使い所を考えないといけないですし、場合によっては二枚舌三枚舌で使い分け、方便そのものを絶対視しないことです。

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 と、長々と自分の話に引き付けてしまって、それこそ自分の領野に勝手に引き釣りこむ悪例のようになってしまい申し訳ございません。そろそろ息切れして参りましたので、以下は個別に、面白かったところ、気になったところをパラパラと挙げていきます。

 2016年東京都知事選での”ニセ選挙運動”について。

野間氏から見れば「また外山がふざけてやがる」ということになるんでしょうが、本当にふざけていたら3週間も延々と朝から晩まで街宣したりしませんよ。”議会主義批判”という真面目なモチベーションがあって、それをただ直球で主張しても誰も聞いてくれないし、やっている側も精神的にキツいからちょっと”面白く”しているだけです。

 これは本当だと思います。わたしも少しだけ外山恒一の街宣車に乗せて頂いたのですが、延々八時間も街宣しているのは横に座っているだけで相当キツい仕事です。それを自分で運転しながらマイク片手に話し続けている外山恒一の体力と執念は尋常ではありません。ほとんど狂気の沙汰で、五体投地しながら山を巡る修行者のような域に達しています。本人も「別に特に楽しくなどない」と言っていましたが、面白いとか楽しいとかテンション上がるとか、そんな次元では動いていません。ちょっと頭がおかしいです。

ネット時代って実は最近の出来事ほど経緯を追いにくいんですよ。昔の出来事は紙の資料で残っていますから時間が経っても情報が消えません。
私が「IT反革命」とか口走りながら今でも紙媒体にこだわり続けているのも、そういう事情もあります。とくに右の皆さん、愛国者の皆さんにも紙媒体へのこだわりは共有してほしい。ネット環境って人々を”歴史”から切り離してしまうんです。右翼が歴史から切れたらオシマイです。

 これは重要な指摘ですね。同感ですが、一方で遠からぬ内に「最近の出来事を追いにくい」現象もアルゴリズムによって克服されてしまいそうで、良いのやら悪いのやら複雑な気持ちがしますが。

 福岡での在特会VSカウンターの衝突で。

この衝突には安易に一方につくまいとキメて、でも現場の状況は見ておきたかったんで双方から同じくらいの距離をとって遠くから見物していたんですよ。しかしそれって要は公安の立ち位置なんですよね(笑)。わたしの周りは妙にガタイのいいイヤホン野郎だらけでした。

 単純にエピソードとして面白いです。目に浮かびます。

私は反原発派ですが、ファシズム転向前はともかく転向後は一貫して「原発反対、核武装賛成」と言い続けています。本当の目的が核武装だと知っているからです。原発なんかやめて堂々と核武装をやればいい、という立場です。逆に言えば、反原発派が勝てないのは核武装を認めないから、あるいは核武装に代わる強力な国防案を出さないからですよ。原発をやめるために必要なのは”代替国防案”であって”代替エネルギー案”なんかではありません。

 大意は賛成です。勿論、原発も核兵器もないのが一番なのですが、本質にあるのが国防、というか暴力の不可避性だというのは誰もが認識すべきです。エネルギーだのエコだの高級そうな言葉は、所詮喧嘩と色恋で生きている人類を高く見積もりすぎです。スマートな略奪のための方便だと考えておおよそ正解でしょうし、尚且つ略奪という伝統的な生活手段が地上からなくなることはあと二千年くらいはないでしょう。
 わたしはナショナリズムなど「最悪の中では一番マシ」な手の打ちどころ程度にしか思っていないので、あまり国防国防と言いたくありませんが、代替国防案、原発がなくても戦えば勝てる(から戦わないで済む)ラインをぶっちゃけて考えて良いと思っています。言うまでもなく、文字通りに無理やり核武装したら各方面からフルボッコにされて、かえって自分で自分の首を絞めることになるでしょう。それをわかって、残念ながら核武装は難しい、でも原発もイヤ、だからもっと凄い戦い方を考える、というのが理想的だと思います。言うのは簡単ですが。

 以下、少しだけ「ん?」と思ったところ。

農民は”売るため”ではなく、まず何より”自分で食うため”に農作物を生産していたんであって、収穫したうちの一定量を封建領主に獲られ、手元に残った分は自分たちで消費する。それでも余剰が出た時にやっと”売る”という選択肢も出てくる。

 この箇所は本書の中でも冒頭に近い箇所で、ざっくり話をまとめて先に進むべきところですから、これで全然文句はないのですが、貨幣というより貨幣概念そのものは負債概念と同時的に、言語的水準で取り込まれているのではないかと思います。勿論、本書全体の流れからするとどうでも良い話です。

欧米流の人権と民主主義のイデオロギーを、軍事力を行使してでも世界中に押しつけ、そしてそれは正義なんだと思いこんでいるアメリカは典型的な左翼国家です。

 理性への信頼をもって左翼を定義づけるという意味では、言いたいことは尤もだと思いますが、やはり少し一面的に過ぎて、福音派がはびこる宗教右派国家としてのアメリカ、という面が軽視されすぎているように思います。

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 以上、ダラダラと書いてしまいましたが、手元に置いて損はない一冊です。どうしても版元さんを儲けさせたくない方は、古書で買うなり、どこかでかっぱらってくるなりすれば良いのではないでしょうか。責任は持ちませんが。
 上でほとんど触れることができませんでしたが、情報としては80年代以降の左翼運動史が詳らかにされているのが特徴的です。この辺りをこれだけの明晰さで網羅している本は他にない筈です。一周回って?タイトル通り「教科書」になる本です。
 わたしが外山恒一関連で書いたものについては、良い抵抗と悪い抵抗などというものはないから順に辿っていって頂けると一番わかりが良いかと思います。尻馬に乗った営業です。
 外山恒一は、書き言葉だと不遜で自画自賛するキャラを演じていますが、実際にお会いすると謙虚で物静かな人物です。心の中では不遜で「なぜもっと評価されないのか」と奥歯を噛み締めているかもしれませんし、それくらいの我があった方が良いと思うのですが、人として接してイヤな感じの人ではありません。気になった方は何かのイベントの際にでも顔を出して見られると面白いのではないでしょうか。気軽にお話してくれます。
 というか、せっかく本人の人当たりが良いのだから別に不遜キャラをやらないでも良いのではないか、と個人的には思っているのですが、もう引っ込みがつかないんですかねえ。大きなお世話ですいません。