イスラーム関係の、特に一般向けのリーフレットなどに、「イスラームはこんなに科学的」といった論調のものが時々見られます。以前カイロで見たフィルムでも「クルアーンのこのアーヤは最近の物理学の発見したこんな現象を予見している」といった下りがありました。
前々から、こういう語らいが不愉快でなりません。
イスラーム界隈?内部では、あんまり露骨に文句を言うのもどうかな、と思っていたのですが、最近友人のムスリマが「わたしもあれは嫌い」と言ってくれて、非常に勇気づけられました。
ああいった言説を紡いでいる方々は、おそらくイスラーム外部に向けて「イスラームは科学的で立派な宗教ですよ」と主張したくて善意でやっているのでしょうが、ハッキリ言ってインチキ臭く安っぽい印象を与える効果しかないように思います。少なくとも、わたしが友人だと思えるムスリム・ムスリマなら、必ずあれに拒否反応を示してくれると信じています。
単にイメージの問題ではなく、信仰を科学によって基礎づけるというのは、信仰を科学の下位に位置づけるのと一緒です。現代科学の証明を待たなければ、その信仰には意味がないのですか。そんなものは全然関係ないし、関係があるにせよ、物理法則も何もかもアッラーが定めた、というだけの話です。基礎づけるなら、科学こそ信仰に基礎づけらなければならない。
サラーが一日五回なのに、「科学的根拠」が必要ですか? アッラーがそう仰ったのだから、もうそれは決まりなんです。理由なんか、人間如きの知性の及ぶ話ではありません。黙って礼拝すればそれで良いじゃないですか。
「現代物理学の発見」がクルアーンのあるアーヤと一致したとして、その「発見」が後に覆されたらどうするつもりなのでしょう。科学という営みは最終解決があるものではなく、常に問い直され検証が積み重ねられるからこそ意味を成すものです。信仰とはまったく性質の異なるものであり、そんなツギハギで信仰を基礎付けようなどというのは、反宗教的であるばかりでなく、科学者に対しても失敬なのではないでしょうか。
「科学的イスラーム」。なんて浅薄な言葉! 「科学的社会主義」くらいインチキくさいです。
カイロにいた時も、「サウム(断食)は身体に良いんだ」とか「サラーをキチンと五回する方が一時間のエクササイズより痩せると証明された」とか嬉々として語る市井のムスリムに何人も会いました。
バカバカしい。
では、新たなる医学的発見により、サウムが身体に悪いとわかったら、彼または彼女は断食を止めるのですか?
身体に良いとか悪いとか、そんな理由で信仰実践を行っているのではないでしょう。たとえ身体に悪くても、もっと言えば死ぬかもしれないとしても、同じことをするから信仰じゃないですか。
こういった主張も良かれと思って言っているのだ、と信じたいですが、正直、自らの信仰に対する自信の無さの裏返しなのではないか、と勘ぐりたくもなります。小細工を弄して証明を待たなければならないほど、貴方がたの神は弱いのですか。
信仰を「科学」により基礎づける、と主張する言説は、カルト的な思想に往々にして見られるものです。これらは結局、信仰そのものの根がないことの裏返しであって、流行りのギミックを切ったり貼ったりして、ハリボテの書き割りを立てているだけのことです。
世界の内部にある総てがアッラーの元にあるからイスラームなのであり、内部のロジックを援用して世界の輪郭そのものを語ろうとするのは、本来転倒した行為のはずです。ムスリムはこうしたカルト紛いの安っぽい言説を慎むべきだと、個人的には考えています。
ただ、一点留保すれば、「世界内部のロジックによる基礎付け」を控えることが、「科学はhowを、宗教はwhyに答えるものだ」という、世俗キリスト教的「分業」に至ってしまうとすれば、それは本意ではありません。
「科学はhowを、宗教はwhyに答える」という見方は、世俗社会に生まれ育った者として理解し易いし、真面目な信仰を持つ日本人(ご利益宗教信徒ではなく信仰者の意)が宗教に期待するのもこうした性質のものではないかと思います。しかし、この「分業」は、一見「科学」と宗教が棲み分けているように見えて、正にこの分業の方法自体、カテゴリー概念自体が、人間主義的・世俗的思考法の元に成り立っており、実質的には信仰を「文化活動」のような社会の狭い余剰領域に押し込むものに他なりません。
「分業」ではダメなのです。
信仰は、信仰こそが理性を基礎付け制限する、という包摂的な力があって初めて信仰なのであり、いわば人間主義的で透明な地平に制御不可能な外部を持ち込むことでなければなりません。信仰が〈他者〉と出会うことであるというのは、そういうことであって、だから人間主義的理性と信仰は、それぞれ別の方法で世界の全体を覆おうとし、時にぶつかり合うものです。〈他者〉の現実的力を排除する大学の語らいを破壊することこそ、信仰の真価であり、「分業」などという詭弁に屈してはなりません。
このことは、所謂理神論の問題と関連しています。
理神論にあっては、神は人格神としての性質を剥ぎ取られ、純粋で透明な創造者であったり、あるいは世界を不断に再創造する力であったりしますが、これは理性により信仰を基礎づける道を辿れば、いずれぶつかる一つの妥結点です。
言わば「why」だけが問える問いの究極部分だけを抽象した神を想定することであって、少なくともわたしは、信仰について真面目に探求していけば、どこかで理神論的、あるいはスピノザ的神にぶつかるのは不可避ではないかと考えています。第一前提として、そのような信仰を思考する時期がないとしたら、その者は信仰に対してナイーヴにすぎるでしょう1。
しかし、「分業」が機能しないのと同様に、やはり理神論ではダメなのです。
なぜなら、そこにある神は、人間理性によって整序されたものに過ぎず、つまり人間理性の及ばない神というものが思考されていない人間中心主義だからです。理神論には〈他者〉がいない。荒々しく不条理で泥臭い〈他者〉がいない。
イスラーム神学でも「アッラーは創造の後玉座に座ると言うが、アッラーは座るのか」とか「アッラーに顔はあるのか」といった議論がなされてきましたが、アッラーは座るし顔もあるのです。これはサラーが五回で時間が決まっているように、「なぜ」と問うてもどうしようもない一回性に根ざしたものであり、その根拠が理性によって了解し得ないにも関わらず、実践し自らに取り込むより他にない、「絶対的な具象」です。こうした具象が、信仰にはなくてはならない。つまり「現実界のかけら」です。
この具象性は、<わたし>の単独性と並行的です。
<わたし>は個別的なものとして特殊specialなのではなく、ただ単に単独的でparticularなものです。「この」わたしという具体性・一回性こそが、わたしをわたしたらしめているのです。アッラーの具象性は、わたしの「この」性と表裏一体です。アッラーは頚の血管より近いとクルアーンにありますが、この神様の近さというのは、わたしがわたしであること、世界が一つで巻戻らない一回性と、人格神という泥臭さと暴力的な具体性が一つのものだからです。
「信仰を科学により基礎づける」語らいは愚かなものです。
しかし一方で、信仰は科学や世俗主義の「許してくれた」領域に小さく収まっているものであはりません。理性の追求や理性による信仰の探求を称揚する一方、時に理性に反逆しこれに制限を加えるものでなくてはなりません。
なぜそのポイントで反逆するのか、というのは、「絶対的な具象」として所与としてあるもので、問うことのできないものです。わたしがわたしであることを、世界内部のロジックで語れないのと同様です。
ですから、「信仰を科学により基礎づける」態度を排除するというのは、両者が別の領域に収まることではなく、信仰が本来の荒々しい力を回復することであって、人間主義の監視者としての武力と威信を、一人ひとりの信仰者が自覚するということのはずです。
- しかしナイーヴであってはいけない、ということではない。一生この地点を通過しない信仰者であっても、立派に信仰を全うすることができるし、この「60点は60点なりに」なところが、信仰というものの素晴らしい点の一つでしょう [↩]