不安と希望、殴られて正気にかえる

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 村上龍さんのニューヨーク・タイムズへの寄稿文が、とても美しいです。
 危機的状況の中の希望 – Time Out Tokyo (タイムアウト東京)

私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。

今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。

だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。

 少し似たことを考えていました。
 不謹慎と怒られることを承知で言いますが、惨憺たる状況にありながらも、世の中の雰囲気は皮肉にも少し「マトモ」になっているように感じます。おそらく自殺者数も減っているでしょう(戦争になると神経症者が減る、というのは有名な話で、確か正にこの村上龍氏がどこかでネタにしていた気がします)。街で知らない人と会話する契機も、前よりは増えている。パニクったり殺気立ったりしている人もいるけれど(わたしだって殺気立っている)、それよりは「互いが生きて存在している」ことを認め合う空気がわずかながら増しているように感じます。実際のところほぼ無傷の首都圏でこうですから、被災地では圧倒的な悲惨さと同時に、より多くの「マトモさ」があるのでは、と想像します。

 大分以前に書いたのですが、エジプトにいると、不思議な安心感と希望、そして自信が湧いてくるのを、いつも感じます。
 冷静に考えると、エジプトはほぼあらゆる面で日本より状況が厳しく、道一つ歩くリスクでも、交通事故率が一回り以上も違うでしょう。インフラはボロボロ、深刻な大気汚染、日本の車検は99%通らない車が黒煙をあげて走り、部屋にはダニと鼠、停電断水なんて日常茶飯事です。世の中の仕組みにしても、予定を決めて秩序立てて物事を進める、なんてことは、ほぼ不可能です。もう、面白いくらい予定通りに行きません。
 にも関わらず、エジプトにいると妙に安心する。実際、イメージと違って治安はかなり良いのですが、実際以上に安心感がある。困った時は、必ず人が助けてくれるだろう、と感じるのです。実際のところは助ける間もなくタクシーにはねられて死ぬかもしれませんが、自分が街や人々と関係していて、良くも悪くもそこで決着が着くだろう、と思うと、諦めて逆に安心するのです。
 一方、犯罪率も交通事故率も圧倒的に低く、道はちゃんと平らだし(カイロでは得難い恵み!)、野犬もいなければゴミ一つ落ちていないのに、わたしは日本の道を歩くのが少し怖いです。電車一つ乗るにしても、次の瞬間に殺し合いでも始まるような不気味な張り詰めた空気がある。一体あの殺気立った暗澹たる空気は何なのでしょうか。
 この現象には色々な理由があるのでしょうが、一つには、日本、とりわけ東京では、本来のリアルな危険が極端に少ないせいで、人間集団がわざわざヴァーチャルな不幸を作り出さなければならなくなっているのではないか、ということが思いつきます。非情に静かな場所、無音のような空間にいると、耳鳴りのような実際にはない音を脳が作り出す現象がありますが、そんな感じです。
 そもそも、実際的なリスクをいかに排除し、確率としての安全性を高めたとしても、当たり前のことながら未来のことは誰にも分かりません。確率がいかに低くても、わたしたちの生は一つで、万に一つの危機でも、自分が当たれば1、当たらなければ0という事実があるだけです。わたしたちは、確率で生きているわけではないのに、いつの間にか全体として見た数字を形成するための一因子に還元されてしまっている。この不気味が、「わたしとその危機」という、プリミティヴな領域に、幻影を作り出させているのではないでしょうか。
 不安というのは、対象が分からないから不安なのであって、不安な人間に「大丈夫、これで死んだ人は0.01%しかいない」と言っても、気持ちが安らいだりはしません。逆に目に見える危機がリアルにあってくれれば、具体的問題を何とかするので人は精一杯になるもので、不安になる暇がなくなります。そして実際的な危機というのは、最後のところは主のご意志次第です。神様がイヤだったら、運でもいい。100%なんてないし、それでも引き金引かないとゼロだから、やるしかない。今やる、すぐやる。もう諦めるしかない。これまた不安になる余裕がなくなります。

 本当のところ、未来は誰にも分からず、人は思い通りに動かせないもので、「予定を立てて合理的にこなす」などということは、うまく行ったら儲けもん、アルハムドリッラー、というだけの話です。上手く行かなくても、イライラする必要はないし、疲れるだけです。それどころか、上手く行かなかったのは主がお望みにならなかったからなのに、そこでカリカリするなんて、涜神的行為とすら言えるでしょう。
 もっと色々、諦めたらいいじゃないですか。
 わたしたちの目の前にいる人間、わたしたちすべてをご覧になっているアッラーこそが、一番大事なことでしょう。上手く行かなかったら、周りの人に相談したらいいし、相談されたら、待ってましたとばかりに気の利いたセリフでも吐いて、見栄をはったらいいじゃないですか。オマケに天国にも行けるでしょう、主がお望みならば。
 「人間は危機にあると、自然と助けあうものだ」と言ったら言い過ぎでしょう。でも、もう自分ではどうにもならない、という事実を認めざるを得なくなると、無神論者ぶっている人でもちょっとは神様のことを感じるのではないでしょうか。神様がイヤだったら、自分を越える何かです。祈るしかない何かです。そういう絶対的なものを感じ、どう立ちまわってもどの道人は最後に死ぬんだ、とリアルに感じられると、力が抜けて、人に話かけやすくもなり、人を助ける気にもなるものじゃないかな、とわたしは思っています。
 どうせ死ぬ、というなら、最初からわたしたちみんな負け決定なんですし、負け前提なら、良い人で死なないと損ですよ。あの世があると思っていて実はなくても何も失いませんが、ないと思っていて実はあったら大変じゃないですか。

 待ってましたと手助けしたり、気を利かせたりするのを、偽善と冷笑する人がいますが、全然偽善ではありません。そういう人は、善の何たるかを何も知りません。善というのは、ピュアで真っ白なアザラシの赤ちゃんみたいなものではなく、もっとえげつないものです。خير善には財という意味がありますし、goodだって「良い」と同時に「いっぱい」「豊か」という意味があり、goodsならカタカナ英語にもなっているじゃないですか。善というのは、ソロバンを弾いてやるものです。ただし、見返りをくださるのは神様です。人に期待してはいけない。
 だから、ここぞとばかりに善行をして点数稼ぐのは、善の王道で、何ら恥じるものではありません。これ見よがしにやるのはよろしくないですが、どの道神様は見ているのですから、ひたすら神を信じて、神様のとこのポイント稼ぎのためだけにやればいいのです。これをわざわざ冷笑して偽善などと言っている人は単なる悪人なので、地獄に落ちるでしょう、主がお望みならば。

 例によってものすごい話がズレましたが、リアルな危機を前にすれば、わたしたちの心はわざわざ危機の幽霊を作り出す必要がなくなります。心は幽霊から解放されて、代わりに希望がやってきます。
 確かに今わたしたちの直面している危機は、未曾有の災害です。超安全圏の首都圏から偉そうなことは何一つ言えないですし、これを読んだ被災者の方に怒られたらひたすら謝るしかないですが、「殴られて正気にかえった」ところがあるのも、認めてやって良いのではないでしょうか。ちょっといいパンチもらいすぎて、顎割れかけてますが。

 前にも書きましたが、わたしは頭のおかしいシューキョーの人なので、地震そのものは主の御業だと思っています。しかしなぜ主がこのような災害をもたらされたのか、その意図は人間ごときの知るところではありません。
 試練の意味は、わたしたちには分かりません。あるいは、その意味は、人間たちの行いによって結果的に決まるのかもしれません。神に代わって勝手に「天罰」と呼ぶどこかの知事は最悪の不信仰者ですが(主が彼の家を燃やされますように)、結果的に「罰」にしてしまうのは、人間自身でしょう。もしかしたら、これを「報奨」という意味に落としていく道だって、あったのかもしれないのですから。