「神罰」を下すムシュリク

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 今回の地震は、もちろん主の御業によるものです。
 しかし、それと神罰だの天罰だのというのは、まったく別の問題です。神罰だの天罰だの軽々に口にする人間は、それが一体何についての誰に対する罰なのか、知っているとでも言うのでしょうか。いつから彼または彼女はアッラーになったのですか。主の意志はわたしたちの理性を越えるものであり、一つの不条理です。極端な話、地震は罰ではなく報奨だったのかもしれない。わたしは知らない。主の御業について、人間たちは様々な意味を勝手に受け取りますが、本当のことはアッラーだけがご存知です。主の行われたことについて、主に成り代わり断ずるなど、正にシルク1そのものではないですか。
 断っておきますが、わたしは頭のおかしいシューキョーの人なので、こうした不可能性の現実性に対し、唯一なる神の力を認識できない者は愚かだと断じますし、こういう時だけ神頼みする人々は実にみっともないものだと蔑んでいます。しかし、これにかこつけて「それ見たことか」と神罰発言を振りかざしたり、人の足元を見てダウワやら布教やら洗脳やら勧誘やら試みる者たちは、それ以上に分別を弁えない、主の道に背く者たちでしょう。これが火事場泥棒でなくて何でしょうか。恥を知るがいい、クズどもが!
 わたしは個人的に、ナショナリズムに対する立ち位置とシャリーアに基づいた支配という点を除けば、ファシズムに対して大変好意的なので、あのオッサンをファシストと罵るのは、まったくもってファシストに対して失敬だと考えます。普通にクズと言えばいいし、何も言わずに処刑すればもっと良い。

 多少関係することですが、近しい人が地震発生直後にある会に参加したところ、主催者の方が「地震で大変ご迷惑をおかけし申し訳ございません」と言って話を始めたそうです。こうした「人間の力でどうにもならないことに対し、なぜか人間が謝る」態度というのは、日本の慣習の中での礼節という意味では、別に悪いものではないのでしょう。謝っていたからといって、別にその人がぴょんぴょん跳ねて地震を起こしたわけではないくらい、誰でも知っています。
 しかしそれでもやはり、人にどうしようもないことについて人が謝罪を口にする、というのは、奇妙なところがあります。慣習的礼法の中に収まっていれば良いのですが、一見控えめに見えて、人ならぬものの領域にすら責任を持とうという奢りがあるのでは、と勘ぐられすらします。
 地震について誰も謝る必要はないし、謝るべきでもない。誰も責めるべきではないのと同じくらい、謝ることは奢った態度です。東電の人たちは、原発を作ってしまったことについて責任はあるでしょうが、それでも想定を越える地震のもたらした災厄について、謝る義務もなければ、謝る権利もない。原発についてすら、別段電気会社の人が独断と思いつきで作って運営した訳ではないですし、何せ日本は「民主国家」だそうですから、百歩譲って人間の分はわたしたち全員の責任でしょう。
 ちょっと秩序通りに行かないとイラついてしまう、というのは、特殊近代的な理由によるのか、あるいはもう少し慣習的な日本的理由によるのか、あるいは両方なのか、はっきりは分かりません。いずれにせよ、こうしたことの裏をかえせば、「誰かが責任を負える」、誰か「謝ることのできる」人がいる、という思想と並行的です。誰も責められないことで、誰かが謝るべきではない。軽々に謝るのは、分別ではなく奢りの印でしょう。

 わたしたちは勝手に「神罰」を下せるほど立派でもなければ、謝れる程力があるわけでもなく、まして責めることのできるほど偉いわけでもありません。
 主のみを畏れ、主以外を恐れない勇気を。

  1. 多神崇拝、アッラーに並べ立てること。これを行う者がムシュリク []