好むと好まないとに拘らずサジダする

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وَلِلّهِ يَسْجُدُ مَن فِي السَّمَاوَاتِ وَالأَرْضِ طَوْعًا وَكَرْهًا وَظِلالُهُم بِالْغُدُوِّ وَالآصَالِ
天と地上で凡てのものは、好むと好まないとに拘らず、またかれらの影も、朝夕、アッラーにサジダする(13-15)

 このアーヤが学問的にどう解釈されているのかは知りませんが、「好むと好まないとに拘らず」というところが、気に入っています。
 كرهですから結構強めの嫌悪だと思うのですが、とにかく天地のすべてがサジダ(跪拝)している。
 逆に言うと、サジダしていれば、つまり絶対的な恭順を示していれば、実は「好んでなく」ても、まぁ許される、とも取れます。
 もちろん、そう言ったら大勢の人に怒られるでしょうが、「とにかくサジダせよ」というのが先に来るというのは、非常に安心感があると思うのです。
 信仰というと、すぐ内面の問題とされます。その背景には、宗教を「文化」として飼い慣らし、個人の問題へと還元しようとする国民国家システムによる流れがあるわけですが、本来的には、信仰というのは単なる「個人の内面」の問題ではないでしょう。非常に社会的なものです。
 内面が大事であることに異論はありませんが、内面だけ取り出すと、自分で自分の心を覗き込んで堂々巡りする、合わせ鏡のような状態に陥ってしまうことがあります。
 「本当に本当に信じてるの?」などという問いは不毛ですし、そこを基準にことは異端審問的袋小路と表裏一体です。
 サジダしてるんだから、いいじゃないですか。
 心は、まあ追々やっていけばいいんじゃないですか。だめですかね。
 
 信仰というのは、実はとても「世俗的」なものではないかと、考えています。