すごい体験と信仰

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 以下の文章は、例によって真面目なムスリムの方には不快な内容を含む可能性がありますので、真面目なムスリム、「ふざけたこと書くな!」という方は読まないで下さい。不真面目な信徒が書いています。
 
 アブー・ハキーム前野先生がブログで入信記を綴っていらして、天と地を這う虫くらい格が違うながらも「すごいなぁ」と思って眺めています。
 わたしはなんとなーくイスラームに寄っていって、いつのまにやら入信しちゃった、という感じで、全然ドラマティックじゃないです。
 日本人ムスリマには、イスラーム圏出身の男性との結婚を機に入信、という方も多いですが(逆も稀にいる)、わたしの場合、そういうキッカケもありません。
 シューキョーに入ります、というと、エライ決意が要るものだったり、神秘体験とか肉親の死とか、大事件がないといけない感じがしますが、とりあえずわたしにはそんなものは全然ありません。
 子供の頃から哲学や思想には非常に惹かれていましたが、関心を持っていたのは哲学や精神分析で、狭義の宗教にはむしろ嫌悪感を抱いていました。近代初頭の西洋哲学はまだかなり「宗教色」が強いですが、最初の頃は「神の存在証明とか何をトロイことやってんねん」と思っていました。思想系を除けば、むしろ理系分野の方が好きでした。割と波乱万丈な人生は送ってきましたが、それで宗教に行こう、とか思ったこともありません。ハローワークに行く方が先です。
 以前に中田香織 さんの入信記を拝読した時、共感したのは、この手の「リアルな体験」のない寂しさ、というところでした。わたし自身は、後述するように、結局のところそういう経験を大して求めてもいなかったのですが。
 身近なムスリムから、あるイスラーム関係の集まりで出会ったアメリカ人(多分)のムスリム男性の話を聞いたことがあります。彼は、人生で迷っている時に、メトロで隣に座った男から「これを読んでみな」と、ポンとクルアーンを渡されたそうです。「するとそこに真理が書いてあったのさ!」と、このアメリカ人は目をキラキラさせていたといいます。語ってくれた彼は、「オレもそんな経験なくちゃいけないのかなぁ」と言っていましたが、気持ちはよくわかります。ドラマ、あったらいいですよね(笑)。
 まぁ、もしわたしが地下鉄でいきなりクルアーンを渡されても、絶対感化なんかされないと思うし、実際、最初に日本語訳を読んだ時は、ちょっとでもグッとくるところを拾おうと必死なばかりで1、正直「なんという退屈な本なんだ、これを信じているイスラーム教徒という人たちはまったく意味不明な人たちだ」と思っていました。日本語訳をパッと読んで感動するような人は、逆にわたしにはよく理解できません。ちょっと羨ましいので、否定はしませんが。
 
 と、前置きが長くなりましたが、書きたいのは「すごい体験」についてです。「すごい体験」にも色々あって、運命的な出会いでも良いし、いわゆる奇跡でも良いです。
 わたしは神様を信じていますし、天使も預言者も信じています。奇跡だってあると思っています。
 ですが、奇跡というのは滅多に起こらないから奇跡なのであって、JR中野駅で毎朝見られたりしたら、それは奇跡とは言わないでしょう。少なくともわたしは、今までにそんな凄い体験はしたことがないですし、多分これからもないし、重要なことに、そんなに見たいとも思っていません。びっくりするのでむしろ見たくないです。
 そもそも、奇跡というのは、奇跡単体で意味があるものではなく、奇跡を信仰に結びつけるのは、結局のところ個々人の心でしかありません。
 水の上を歩いてパンをどんどん増やせる人がいたとして、確かにそれはすごいパワーですが、それが神様の許しによって得た特別な力で、かつ彼が預言者である、ということの証明とは別の話です。ただ単に滅茶苦茶身体を鍛えている人かもしれないし、手品師かもしれません(いやまぁ、それだって凄いですけどね)。結局、その人の言葉を信じるか否かは、わたしたち自身の判断にかかっているわけで、それなら奇跡なんてあろうがなかろうが、本質的なことではありません。ただ、それが必要な人には必要な場面で下される、というだけでしょう。
 
 わたしにとっての信仰は、フツーのものです。免許証に住所が書いてあるように、信仰も持っている、というくらいです。
 本当はもうちょっと奥が深くて、当たり前ですが自分の中の核の部分を支えてくれてはいるのですが、毎日毎日そんなディープなことを考えて生きているわけではありません。
 そして大事なことに、むしろディープなことを考えないで済むからこそ、信仰は素晴らしいのであって、一年365日内奥の神秘と向き合わなければならないようなものは、少なくともわたしにとっての信仰とは別種のものに感じます。
 いちいち「内面」なんかと対峙しないで済むのは、やることが決まっているからです。とりあえず礼拝がありますし、クルアーンを読むのだってわたしにはなかなか骨の折れる作業です。死ぬまでには全部暗記したいですが、覚える先から忘れていくので、クルクル回るハムスターみたいに大忙しです。忙しいから、内面を覗き込んで「死のう」とかやっている暇がありません。そんなことやっているうちに、そのうちコロッと死ぬのでしょう。大変結構。
 
 わたし個人がとても勇気づけられたのは、エジプトで得た体験で、かの地の人々は九割方ムスリムなのですが、当然ながら全部が全部立派なムスリムというわけではありません。それどころか、ダメな人の方が多いでしょう。一般的な社会道徳とかいう点では、平均的日本人の方がマシかもしれません(社会道徳と信仰は基本的に別問題ですが、つながっている)。
 それでも、少なからぬ人が信仰を大切にしていて、ダメはダメなりに信じていて、できる範囲で実践している、そういう姿に非常に助けられました。ぶっちゃけ「これくらいならウチにもできるわ」と思ったところがあります(笑)。
 とても素晴らしいのは、市井のオッチャンで、別段教養があるわけでも立派な地位があるわけでもない人が、銭湯で一席ぶつみたいに、自分なりのイスラームを語る、ということです。年寄りだけじゃなく若い人でもそうですし、特に最近のイスラーム復興の流れのせいか、むしろ若い人の方がしっかり語れたりします。
 ちなみに、わたし個人の出会った範囲内では、コプト教徒の人も、欧米の「キリスト教徒」と全然違って、かなりしっかりした信仰心をもって実践し、たどたどしいながらも信仰を語るだけの弁舌と熱い魂を持っている人が多いです。これは本当にカッコイイです。
 
 イスラームには奇跡話が比較的少ないですが、有名所で、ムハンマド様が一晩にしてエルサレムまで飛んでいって、そこから天に登った、というお話があります。この話を預言者様がされた時、周囲の人々は「ほんまかいな」と半信半疑だったのですが、後に初代カリフとなるアブー・バクル様は「ムハンマド様がそう仰るのだから、それはそうなんだろう」と、ドーンと断言された、という逸話が伝わっています。
 このアブー・バクル様の態度というのが、わたしは非常に好きです。
 彼だって、飛んでいるところを見たわけではないし、別段根拠なんて何もなかったでしょう。普通に考えて、預言者とはいえ生身の人間であるムハンマド様がエルサレムまで飛んでいったという話は、信じがたいです。「でも信じるんだよ! そう言ってるんだから本当なんだよ!」というのが、バクルの親父殿なのです。
 この親父殿の態度こそ、奇跡に対する真正の態度で、この腹の据わりがあれば、奇跡がなくたって大丈夫なのです。逆に言えば、この気持ちがないなら、奇跡が起ころうが天使が来ようが、全然意味なんかありません。
 
 奇跡があろうがあるまいが、神様は直接見えるものではないですから、本当のところ、疑おうと思えばいつでも疑えますよ。
 もっと言ってしまえば、疑って考えたって良いと思います。ただ、考えるにもやり方がある。
 外側に立って「どうなのかな、本当かな、胡散臭いな、やっぱキリスト教の方がええんちゃうかな」とかやっていても、いつまで経ってもラチがあきません。そういう人は、「ではこれが証明じゃ!」とか、エライ人が奇跡を起こしたって「どうせ東急ハンズで買ってきた手品でしょ?」とか思っているだけで、結局前に進まないでしょう。
 だからわたしは、一回全部呑んでしまおう、と思いました。
 わかんないですよ。わかんないし、多分、一生絶対というものはない。でも、やってみる。やりながら考える。
 というか、わかんないから「信じる」と言うんでしょう。
 犬が西向きゃ尾は東とか、そんなことなら「信じる」とか「信じない」とか、そんな議論になりませんよ。
 逆に「わかる!」と言い切ってしまっている人は、ちょっとヤバいんじゃないかと思います。一歩間違えば狂信ですし、単なる病気かもしれないし、あまりに依存しすぎに見えます。そういう時期が一時的にあっても良いと思いますが、ずーっとその調子、という人は、ちょっと冷静になった方が良いと思います。
 最初から、火を見るように明らかな答えが出る見込みなんてないんですよ。門の前でうろうろしてても始まらない。ないからこそ、実践しながら、問いながら生きていく。
 わたしはそうしようと思って、実際そうしています。
 
 何度も書いていますが、信仰と恋愛というのは似ています。あるいは結婚かもしれません。
 「どうして好きなの?」と言われたら、「背が高いから」とか「優しいから」とか色々言うでしょうが、そんなものは後付の理屈でしょう。優しい人なんて、他にナンボでも掃いて捨てるほどいますがな。
 好きになったらお腹が赤くなるとか羽が紫色になって開くとか、そういうものなら分かりやすいんですけど、実際のところ好きかどうかなんて、わからないでしょう。でも「好き」を実践して、付き合っているなら、それは好きってことなんでしょう。
 結婚したとして、じゃあ相手のことを100%全肯定、なんてカップルはあんまりいないでしょう。いたらかえって危ないんじゃないかと思います。不満なんて言い始めたらキリがないけど、なんだかんだで一緒に居たいわけで、じゃあその生活の枠組みの中で、日々問い、考えながら、少しずつ歩いて行きましょう。そういうものじゃないですか。
 信仰も一緒なんじゃないかと思います。
 
 この考え方は、本当を言うと支持できないのですが、極端なことを言ってしまえば、「来世を信じても損しない」という考え方もあります。パスカル式ですね。
 信じてなくて実はあったら大変ですが、信じてて実はなくても、別に失うものはない。そういう見方もあります(個人的には、最終的には支持しない)。
 「もしなかったら、それまでの人生で信仰に捧げた部分はなんだったんだ」と言う人がいるかもしれません。ハッキリ言いますが、そこで捧げて損するほどの大した人生ですか、アンタのは。エラくなったって博士か大臣、二百歳まで生きるでないでしょう。そんなしょぼくれた人生捧げたくらいで神様に受け入れてもらえるなら、安い取引です。イスラームは商人的発想に満ちた思想ですから、本当に文字通り「アッラーは支払いが早いでっせ」みたいな言い方がされています。良い取引です。
 捧げなさい捧げなさい。今売っとかないと、ライブドアの株みたいになってエライ目にあいますよ。
 まぁ、これは例によって余談です。この方法が「効きそう」な方は、薬代わりに使っても良いと思いますが、あんまり大事なお話ではありません。
 
 滅茶苦茶なことばかり書いてしまいましたが、「すごい体験」に戻ると、有名なハディースがあります。
 後に二代目カリフとなるウマル様たちがムハンマド様と一緒にいると、白い服を着た見慣れない男がやってきて、ムハンマド様に色々とイスラームの本質について質問します。ムハンマド様が次々と正しい答えを言っていくと、男は「そのとおり」とうなずきます。預言者様に対して、いきなりやって来て突っ込んだ質問をしていくのですから、見ていた人はハラハラしていたことでしょう。一しきり質問すると、男は満足そうに立ち去っていきます。
 それを見てムハンマド様が「あれが誰だかわかるかね」と、周りの者に尋ねます。「あれは天使ジブリールだ。お前たちにお前たちの宗教を教えに来たのだ」と言うのです。
 このハディースが印象的なのは、天使が人の姿をしてやって来て、ウマル様をはじめとする「普通の人々」の前に現れているからです。
 預言者様お一人のエピソードでなら、聞いていても「そういうものだろう」と思うわけですが、この話はちょっとドキドキします。
 信徒にあるまじき暴言を吐けば、もしかするとこの男は、ただのちょっと頭のおかしい図々しい人だったのかもしれません。「天使ジブリールだ」と言われて、ウマル様が「ほんまですか、そら茶くらい出さんとあきませんわ」とか立ち上がって追いかけていって捕まえたら、その辺のオッチャンだった、ということだってあったかもしれません。
 でもお話はここで終わっています。ウマル様は追いかけなかった。男はどこかへ行ってしまった。そして永遠に、戻って来なかった。
 だから、奇跡なのです2
 奇跡というのは、結局のところ、「これ一つ」ということです。遡って再現できるものなら、奇跡とは言いません。何度もできるなら、普通の自然現象です。
 一回起こって、過ぎてしまってからでは、もうどうしようもない。確かめようもない。
 それはちょうど、わたしたちの人生が一つだけで、「わたし」がこの世に一つで、世界が一つで、この一瞬一瞬に過ぎていく時が、永遠に取り戻せないのと並行的です。
 そしてまた、アッラーがお一人であることと一つです。
 ウィトゲンシュタインではありませんが、世界に神秘はなく、世界そのものが神秘です。しかし、世界そのものという神秘は、普通に生きていてはなかなか感じられません。その世界は、毎日普通に目の前にあって、当たり前に流れていってしまいますから。
 その普通が、類まれなく普通が、時折素晴らしい輝きをもって見えることがあります。そういうものが、奇跡であり、「すごい体験」なのでしょう。
 だから、ウマル様たちにとって、その白衣の男は紛れもなくジブリールで、もう絶対にジブリールなのです。
 彼がジブリールであるということは、ウマル様がウマル様で、自分が自分で、世界が一つであることと一緒なのです。その瞬間、そう感じて、そう断言すれば、それが奇跡です。
 
 最初に、「すごい体験」というのは出会いでも奇跡でも良い、と書きましたが、奇跡というのは要するに出会いなのでしょう。
 出会いというのは、出会った後から振り返ると、それこそ「奇跡的」なこともあって、そこで出会った人のかけがえの無さに感謝するものですが、もしかするとそれくらい「自分にとって大切な人」というのは、地球上には他にいくらでもいるかもしれないわけで、出会った相手の何らかの属性に、出会いの尊さが還元されるわけではありません。また、「今となってはかけがえの無い」人だって、タイミングが違えばそんなに仲良くもならなかったかもしれません。要するに、出会いというものは一回性がそこにおいて代理されている限りにおいて、尊いのです。
 一回性というなら、毎日歯を磨くのだって、全部一生に一度で、ありとあらゆるものがかけがえの無いものです。でも普通、わたしたちはそこに特別さを見出しません。見出していたら大変です。
 そして、奇跡にしろ出会いにしろ、冷静に考えたら対象の性質自体はそれほど特別ではなくて、でもなぜだか、かけがえの無さが見出されてしまった、という事実だけが違うのです。
 すべてが単独的だけれど、普通は隠されていて、時々ふと、直接に目に入ってくることがある。そういうものが、出会いであり、奇跡なのです3

  1. ちなみに、これくらいの距離感の日本人が「グッとくる」箇所は、イスラーム的に全然どうでもいいポイントの場合が多いです(笑)。この辺の直観の通じ無さ加減は、日本人にとってのイスラームの面白さの一つです。 []
  2. イスラーム的な定義でこれが「奇跡」に分類されるかは知りませんし、ここでのお話にとっては重要ではありません。要するに「すごい話」です []
  3. ここで個人的には、ラカンのまなざしを連想しています。彼は、目の機能とは何か、と問いかけ、「隠すこと」のような答えを示します。どういうことかというと、光がモロに入ってきてしまっては、目というのは焼きつくように露出オーバーになってしまって、機能しません。ですから、目は何らかの形で「フィルタリング」する必要があるし、光量を絞る必要があります。フィルタをかけて、光の反射だけを見る。光はこの視界の中で偏在していますが、わたしたちは「見させるもの」としての光を直接意識することはなく、ただ光源を直視してしまう、という目の「間違った使い方」をした時だけ、視界を機能させているドライブを認識するのです。視界は、視界という世界の破綻する力によってのみ、視界として機能する。 []