自殺罪

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 最近、自殺未遂をした息子の多額の医療費を苦に、母親が刺し殺す、という事件がありました。

’10裁判員:自殺未遂の長男殺害、67歳母に猶予判決 東京地裁「同情余地多い」 – 毎日jp(毎日新聞)

 これについて、健康保険との関係を論じる以下のエントリが興味深いです。自殺未遂の治療には保険が適応されないそうです。

自殺未遂には健康保険が適用されない – リハ医の独白

 自殺未遂の治療に保険を適応すべきか否かについては、色々な議論があるでしょう。このエントリにある、

自らの命を絶つという行為に対し、経済的ペナルティを与えても、自殺を予防することはできない。

 という指摘には同感です。
 わたしは個人的には、様々な法的リスクを込みにしても、自殺未遂の治療に保険を適応すべきだと考えています。
 その代わりというわけではないですが、「自殺罪」があったら良いのです。
 
 これが相当ムチャクチャな話だということは、百も承知です。また、実現される可能性もほぼゼロでしょう。
 自殺は元々罪でした。現在でも、何となく「悪いこと」というイメージは残っているでしょう。ただ、法制度上自殺そのものが「罪」とされていることはないですし(自殺幇助は罪ですが)、更に「人殺しが罪なのはわかるけれど、自殺が何で罪やねん」と堂々と語る人もいるし、安楽死の合法化を訴える人もいます。
 まず、心情的には、「勝手に死なせてくれ」というのも理解できますし、また安楽死合法化にも一定の共感を抱きます。無駄な延命治療の中止、という意味なら、ほぼ賛同すらします。
 しかし、イスラーム的には自殺は罪ですし、イスラームに限らず多くの信仰で自殺は罪とされていますし、信仰を括弧に入れても多くの社会で自殺は依然罪悪で、かつわたし個人も罪だと考えています。
 なぜか。命は自分のものではないからです。
 
 イスラーム的には、人間は主の僕として創られたのだから、そもそも自分自身に対して「所有権」を持っていない、という話になるでしょうが、宗教臭い話がイヤだというなら、命は「みんな」のものです。
 家族を養っていれば、狭い意味でも「自分だけの命ではない」でしょうが、別段稼ぎ手でなくても、無数のもののお世話になって、つながりながら生きているのです。そもそも選んで生まれてくる人などいません。誰かの都合か、ただの手違いか、とにかく本人の与り知らない事情で勝手に呼び出されたのがわたしたちですから、自分のだけのものなどというのは勘違いも甚だしいです。
 よく「親から貰った命」という言い方をしますが、「貰った」では甘すぎます。貰ったものなら捨てるのも勝手ですから(笑)。親は「あげた」かもしれませんが、アッラーは全然手放していませんから、まだあなたのものではありません。
 逆に言えば、「自己責任」などというのも自殺と同罪で、人間、一人で成し遂げたように見えることもアッラーと多くの人・生き物の助けで何とかしているだけで、失敗した時だって一人のせいではありません。「お前は自由だ、だから自分でやったことは自己責任」などという、先進諸国で持て囃される言説は、自殺を「勝手」とするような奢りたかぶった考えと表裏一体です。
 このあたりのことは、以下のエントリでも書きました。

努力がいつも報われるわけではないが、努力しないでも手に入るものはある
自殺を止めること

 というわけで、自殺を試みたもののアッラーのご意志により見事失敗された方は、みんなの健康保険でしっかり治ってもらった後、相応の償いをして、それから社会復帰して頂きたい。これが基本的な考えなのですが、一つ留保しておきたいことがあります。
 仮に自殺が罪だとしても(仮じゃなくて罪ですが)、それを裁く主体として国民国家が相応しいとは考えていない、ということです。国家にとっても、国民が自分の命を粗末にすれば困るでしょうが1、国家は命の所有者ではないし、あってはなりません。アッラーの持ち物について国家ごときが裁定を行うなどというのは、これもまた驕りでしょう。
 ただ、現実問題として、現在のわたしたちの社会はネイションのファンタジーにすっかり包囲されていますし、偶像崇拝がそんなに好きなら、毒を食らわば皿までで、あなたたちの神に自殺が裁けるのかやらせてご覧、という皮肉を込めて、自殺罪を提唱しておきます。
 
 経済的苦境や精神疾患などに追いつめられて自殺に至ったのに、さらに罪をかぶせるとは残酷な、と思われるかもしれませんが、保険適応外にして家族に多大な負担をかけたり、暗黙の社会的制裁を加えるよりはマシでしょう。アッラーの恵みで自殺に失敗できたのだから、ご祝儀で治療費なんか全額国庫負担にしてもいいくらいです。
 見事自殺できてしまったりしたら地獄に落ちるだけですから、それに比べたらずっと軽いです。これは信仰を持たない人には、さっぱりわからない考えでしょうが。
 別段死人(あるいは死にかけた人)に鞭打ちたいわけではなく、基本にあるのは、ただ生きているだけでも立派なものなのだ、という当たり前の事実です。「何のために生きているのかわからない」「生きていても辛いだけ」などとという悩みは、中二病と揶揄されるだけですが、わたしはこの問いはまったく正当だと思っています。わたし自身も、今でもこういうことをよく考えます。だからこそ、「ただ生きている価値」と背中合わせのものとしての「自殺罪」を言いたいのです。
 わたしは一応イスラームの信徒ですが、(残念ながら)何の疑問もなく最終回答が出ているかのように考えられる「できあがっちゃった」宗教のひとではありませんし、自殺を考えたことも無数にあります。身近で何人か自殺者もいます。
 そういう人に必要なのは、「自殺は別に罪じゃない、他人に迷惑かけずに死ね」という言葉でしょうか。言うべきなのは「迷惑かけろ、他人に頼れ、でも死ぬな」ではないですか。
 迷惑かけまくっても生きているだけで価値があるから、自殺は罪なのです。
 ちなみに、万が一自殺罪が本当に制度化されるとしたら、刑罰として同じ未遂者のケア等にあたってもらえたら、なお良いように思います(死刑はダメですよw)。そしてシャバに出てきたら、全力でお祝いしてあげましょう。
 
 以前にエジプトで、日本の自殺者が非常に多いことが話題になり「わたしの友人にも自殺してしまった人がいる」と言ったところ、同情されるどころか激しく非難されました。「お前は友達なのに、そいつが死ぬまで何をしていたんだ。他の友達はどうしていたんだ」。正直、どうにもしようもなかったのが率直なところですが、彼らの批判は正当だと感じました。彼が死んだのも、また生きているのも、わたしたち全員の責任です。自己責任なんかじゃない。
 もしかすると、自殺罪で罪を償うべきなのは、自殺未遂者だけでなく、自殺者の周りにいたわたしたちなのかもしれません。
 
追記:
 自殺を制度的に罪とすべき、と考える一方、自殺幇助の罪はもう少し軽くしても良いと思っています。自殺を罪と考える原理は、命そのものの価値に基礎を置く以上、自殺と殺人の罪悪は根本で一緒です。そして、殺人には様々な状況・動機があり、その中で、例えば回復の見込みもない重病人の自殺幇助というのは、情状酌量の余地の大きいものでしょう。
 今回の母親の件は自殺幇助ではなく殺人でしょうが、立派な介錯だったと思います(これは日本の裁判所も汲んでくれている)。殺すのはやりすぎですが、ある意味「自殺罪」の刑を母が自ら手を下し執行したようにも見えます(もちろん意図は異なるでしょう)。

  1. 奴隷として使える国民の命は、でしょうけれど。使えない国民なら「迷惑かけずに死ね」といったところでしょうか []



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