『イスラームの世界観 ガザーリーとラーズィー』青柳かおる

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4750320676イスラームの世界観
青柳 かおる
明石書店 2005-02-14

 イスラーム神学、哲学、神秘主義という、当初互いに独立に発展してきた潮流が、影響し合い批判的に融合していく過程を、ガザーリーとラーズィーという二人の思想を通じて描き出す貴重な一冊。
 わたしの脳みそが至らないことに加え、元のテクストが既に濃密に煮詰められたものなので、うまくまとめる言葉がないのですが、まずこの三つの思想潮流の大雑把な流れが概説され、ついで本書の主人公たる二人の位置づけが素描されます。
 次いで、まず神学と神秘主義の関係として、アシュアリー学派神学がガザーリーにおいていかに神秘主義を受容し、それがラーズィーに受け継がれていくか、が解かれます。取り上げられているのは、主に神名論です。
 次いで、神学、哲学、神秘主義の世界観が素描され、ここからミウラージュの解釈を中心に、ガザーリーおよびラーズィーにおいてこれらがいかに交わっていくかに、焦点が当てられます。
 
 個人的に興味を惹かれたのは神名論です。
 名前اسم〈名指されるもの〉مسمى〈名指し〉تسميةの三概念を巡って、

アシュアリーの時代から、イマーム・アル=ハラマインの時代まで、アシュアリー学派では、神の名前は〈名指し〉であるというムゥタズィラ学派の主張に対して、大多数の者は神の名前を〈名指されるもの〉自体であるとしてきた。またアシュアリーやイマーム・アル=ハラマインなど少数の者は、神の名前を神の属性とみなして、属性の三分類に従って分類してきた。

 属性の三分類とは、
①「存在者」のように、神の本質に帰着するので神そのもであると言える名前
②「知る者」のように、「知識」という紙に内在する属性に帰着するので神そのものではないが、神ではないとは言えない名前
③「公正な者」のように、神の行為に帰着するので神であるとは言えない名前
 を指します(対して理性主義的でかなり哲学的なムゥタズィラ学派では、神の唯一性が重んじられるため、属性は神に先立って存在するのではなく、被造物により属性が作られる、と考えられる)。
 一方ガザーリーは、
①個物にあるもの(実在する事物)
②心にあるもの(形相)
③言語にあるもの(言辞)
 と存在様態を整理した上で、名前を「指示するために使われる言辞اللفظ الموضوع للدلالة」とします。

名前は、三つの存在様態の中で言語にあるものであり、指示対象を示す言辞である。それはガザーリー以前には〈名指し〉とされていた実際に使われる言表のことである。言辞は個物の形相を指示し、心を経由して個物を指示するので、形相と個物は指示されるもの、つまり〈名指されるもの〉である。

 つまり、
名前:言辞
〈名指し〉:名指し行為
〈名指されるもの〉:実在する事物や心にある形相
 という再整理が為されます。

 ガザーリーはそれまでアシュアリー学派において〈名指されるもの〉自体、または属性と考えられていた名前を言辞であると修正したのである。ガザーリーにとって、神の名前はあくまでも〈名指されるもの〉を指示する言表であって、永遠のものではない。永遠なのは神の名前ではなく神の本質と属性である。

 これは結構哲学よりの発想で、スリリングな印象を受けます。
 ついで、神の名前によって人間が神に近づくことができる、という論点に移ります。人間は神との名前の共通性により、類比により神を知ることができるのですが、これはあくまで類比であって、実際は神と人間の間には一切の類似がありません。ただ、自分との比較の上で神を知る手がかりを得る、ということで、ここにおいて、永遠性を剥奪された名前が、新たな位置づけを得ることになるわけです。
 この点で、既に神秘主義的傾向が見いだせるわけですが、ラーズィーにおいては、ガザーリーの基本的な神名論が継承された上で、神秘主義的要素の受容に変化が見られます。

(ラーズィーは)最高段階のタウヒードが神秘主義的な観照の段階であることを認めており、また代名詞「彼」を、ファナーの境地として解釈していた。しかしラーズィーは、ガザーリーのような「神の名前によって人間は神に近づく」という神と人間の共通性を示唆するような主張はしなかった。(・・・)ラーズィーは神学者として、神と人間の隔絶性を主張しているのである。しかしながら、ラーズィーは、神名解釈書に神秘主義を取り入れており、断片的ではあるが、ラーズィーにおいても、ガザーリーの取り入れた神秘主義の影響は続いているといえよう。

 
 非常に濃密な一冊で、キチンと理解できている気がしないので、少し時間をおいてからもう一度読みなおそうと思っています。