気短さと待ちについて

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 『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』のエントリで、(自由な)近代的主体性は西欧人の「気短さ」に由来するのではないか、というエリ・ザレツキーの指摘についての記述を引用しました。
 この気短さからの連想について、メモしておきます。
 
 気短さという指摘によって照らし出されているのは、時間の領域です。この時間とは、物理的な時間というより論理的な時間、つまり契機の時間差のようなものですが、「自由な主体」による「自己決定」とは、この時間差が認められない限りにおいて成立するのではないか、というのが件の論です。
 ここから一つ連想されるのが、贈与の位置です。
 贈与とは、一方的にものを贈りつけることにより負債感を発生させ、最終的には返礼により賄われるものです。これに対し、絶対返礼不可能な贈与を「絶対贈与」として区別する必要があります。絶対贈与とは端的に言えば神がわたしたちに対して与えるものですが、贈与は普通の贈り物ですから、ちゃんとお返しできます。
 返礼できるなら「交換」と変わらないのではないか、と考えられるでしょう。ものの交換という意味では、通常の交換と変わりありません。重要なのは、贈与と返礼の間に「時間差」がある、ということです。ここでは互いの感情的な領域が宙吊りにされていて、それが相互関係に実体感を与え、惹いては社会的靭帯の強化に繋がるわけです1
 中沢新一氏などが指摘されていることですが、交換・贈与・絶対贈与という関係は、ラカンの術語で言えば象徴界・想像界・現実界に対応します。
 
 『「不自由」論』の中で、ドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域に対する権利」という概念が取り上げられています。この用語は明らかにラカンを前提としており、わたしたちの自己像(像!)を涵養するイマジナリーな領域、他者との相互関係を通じて自己イメージを収斂させていく領域への権利、ということです。
 リベラリズムやリバタリアニズムが想定する「自己」は、通常この過程を完了し揺ぎ無いことを前提とし、他人からの強制力を排除し”自由”になりさえすれば、この「自己」がしかるべい決断を下せる、ということになっています。
 しかし現実には、この「自己」は共同体的文脈から自由になることはできず、人生の過程で揺らぎが生じても自由に「自己決定」(自己を自己決定)することはできません。

通常のリベラリズムでは、「そうした心の問題に他者は介入すべきではない」ということになり、本人の”主体性”に任されることになる。法や政治という形で「社会」が介入できるのは、せいぜい「決定」した”後”での経済的保障や、不当な圧力の排除くらいである。
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つまるところ、リベラリズムやリバタリアニズムにおいても、「自己決定」に先立つ”自己”の選択の問題は、結果的に、既存の共同体文脈に委ねられることになる。どういう「自己」を選ぶかは、当人と、当人を取り巻く様々な共同体的文脈との関係性の中で、”自然と”決まってくるのを待つしかないのである。しかし、そうなると、「自己」の在り方について相当な違和感を感じても、(イマジナリーな領域を共に形成している)「他者」の助けがないので、現状を受け入れざるを得ないケースが圧倒的に多くなるのは明らかである。
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「イマジナリーな領域への権利」は、「自己決定権」を格子する能力を獲得するための(メタ)権利として理解することができる。つまり、「決定」する主体としての「自己」を”自分”で「決定」することのできる「権利」である。

 こうした概念が提起される背景には、本人が望んでいない「アイデンティティ」が、いつの間にか”自由”な「自己決定」の基盤とされている場合がままある、という事態があります。
 「自己を自己決定」などというと、単にメタ化しただけの空疎な言葉のようですが、イマジナリーな領域への権利とは、この(再)決定過程自体を「留保」する権利と言い換えられるのではないでしょうか。それが権利として立てられることによって何が可能になるかと言うと、「自己決定」に先立つべき領域に、論理的時間が認められる、ということです。
 論理的時間は必ずしも物理的時間に対応しないわけですが、とにかくそこに一つのステップが見出される。これは「気短さ」において、ペシャンコに不可視化されていたイマジナリーな領域に、つっかえ棒をして潰されないようにする、という営みです。贈与によって呼び起こされる負い目のような、面倒くさい領域を引き受ける覚悟を求めるものです。
 
 もう一つ、かなり危険な連想を恥ずかしげもなく述べさせて頂くなら、次の聖句が思い浮かびます。

خُلِقَ الْإِنسَانُ مِنْ عَجَلٍ سَأُرِيكُمْ آيَاتِي فَلَا تَسْتَعْجِلُونِ
人間は気短かに創られている。われは直ぐに印を示すであろう。だから急いでわれに催促してはならない(21-37)

 何重にも留保しなければなりませんが、件の「気短さ」とこの「気短」は、直接的には何の関係もありません。
 そもそもمن عجلは大分解釈の分かれるポイントらしく、直感的にも「気短かに創られている」という訳で言い尽くせている感じはしません。「急ぐことから創られている」が直訳ですが、創造自体が「急いで」行われたことを指す、という解釈もあるようです。
 これを踏まえた上で、前後の文脈から読めば、「アッラーの懲罰が下ると言いながら何も起こらないではないか」といった批判に対し「急がなくても結果はちゃんと下る、待っておれ」という意味にとるのが一番素直に見えます。そう読んだとしても、依然件の「気短さ」にはまだつながりません。
 ただ、イスラーム的には、現世とは来世との間の「束の間」の領域です。「結果」は一番遅くても来世には判明するわけですから、「急ぐな」ということで確保されているのは、現世という「時間差」と考えることもできます。
 ませた子供が「どうせ死ぬんだから何をやっても一緒だ」みたいなことを言って、お父さんやお母さんにひっぱたかれることがあります。けれども「どうせ死ぬんだから」というのは、一面の真理を射当てていて、宗教的観念がないとしたら、この言葉に論理的に反駁するのは極めて困難です(だからひっぱたくというのは「正しい」対応)。周りの迷惑だの死後の名誉だので説得しようとしても、「そんなものは死んだ自分には関係ない」と言われればどうしようもありません。「正しい」のは子供の方です。この筋道が一端できてしまったところで、力で押し返すのは不可能でしょう。
 イスラーム、あるいはその他の宗教的観念のやっていることは、「どうせ死ぬんだから何をやるかが大切だ」という、物凄いトリックプレイです。この滅茶苦茶な大逆転で何が行われているかというと、「結果」との間の時間差自体に価値を認める、ということです。死後に裁定が下り、かつ運命が絶対なら、生きて為すことなど何もないではないか、というような論駁は、イスラーム内的にも神学議論としてあるわけですが、これに対する解法は、時間差自体の位置づけを認めるしかない。ちなみに、運命を認め狭義の自由意志を否定しながらこの時間差の価値を認める方策として、アシュアリーの「獲得理論」を見直すこともできるのではないか、と思います。
 上の神学的論駁にもあるように、人間は結果を求めたがるものです。言わば間の曖昧な領域をペシャンコに潰して、論理的なショートカットをしようとするわけです。正確には、「論理的に考えられる領域だけのショートカット」ということになるでしょうか。つまり、サンボリックな領域だけで筋道を辿ろうとし、その各論理項目の間にある空隙、ジャンプに要する「時間差」を無化してしまう、ということです。
 これに対し、上の聖句では、前後の文脈から素朴に読む限りでは、アッラーからの「結果」は催促しないでも来る、だから待て、と、間につっかえ棒を入れて時間差をもうけているように見えます。その時間とは、贈り物がお返しされるのを待っている時間です。こう考えれば、自己決定する主体を求める「気短さ」と、ここで諌められている「気短さ」にも非常に基底の部分で通底するものを見出されるのではないか、と思います。
 
 危険な連想のついでに、交換・贈与・絶対贈与という三組を対応させて見るなら、シャリーア・ウンマ・アッラーとでもなるでしょう。こう書きながら、ムスリムからもラカニアンからも殴られるんじゃないかと、恐怖でフルフル震えているのですが、バカなので書いてしまいます。
 イスラームを外から見た記述には、戒律やら「イスラーム法」やらという面が強調されているものがまま見られ、少なくとも自分の知っているイスラームとは何か違う、と感じることがあります。何が違うのだろう、と考えると、これがなかなか言い当てにくい。言い難いから皆あまり書かなくて、結果として偏った記述になるのだろう、と、別のところで合点がいってしまうのですが、多分、記述されにくいものは、ウンマ=贈与=イマジネールなもの、という領域です(リアルなものとしてのアッラーは、定義上象徴の網の目を抜けていくもので、記述し難いのは当然で驚かない)。
 この領域が何をやっているかと言うと、骨に対して肉をつける、鉄骨と鉄骨の間にコンクリートを流しこむようなことをやっているわけで、それは「法」の視点からするとあまり重要なポイントではないのですが、実際にはこの隙間の部分が、「社会」の実体となっている。
 この「社会」の味噌の部分は何かというと、極論してしまうと、それは待つことです。すべての演算が瞬時に完了するなら、原因即結果であり、「待つ」という領域はありません。しかし、そこには(物理的時間差以前に)論理的時間差があります。この領域は、何せ「待ち」なので、それ自体を欠くべからざる一項として立てるのが難しいのですが、実際のところ人の生の「肉」となるのは、この「待ち」の部分です。だから、忘れてしまってはいけない。
 サンボリックなものとリアルなものの説明として、回転する回路に対し外部から(不可能なものとして)エネルギーを注ぎこむのが現実界、大雑把な比喩でしかないかもしれませんが、といったものが見受けられます。「法」は一見象徴的に完結しているようですが、それだけでは電源の入っていない機械と一緒で、動くことはない。「法」に対する電源は、「法」に記述されないので「不可能なもの」ですが、その不可能なものが「法」を駆動している。
 加えて、あらゆる演算には時間がかかる。ここでかかる時間とは、現実界に根を持つものですが、わたしたちはそうは認識しない。ただサンボリックな論理項の間にある遅延として、現前します。ここがウンマの領域でしょう。
 
 翻せば、「社会」というもの、イスラームで言えばウンマというものは、遅延を認める「よく待つもの」でなければなりません。「待ち直す」と言う方が正確でしょうか。
 昨今のイスラームについて、クルアーンとハディースのみから(わたしのように)勝手な解釈をして突っ走る者がいる、という指摘が為されることがあります。アルハムドリッラー、わたしには人望も根性も爆弾の作り方の知識もありませんが、そういうものがたまたま揃ってしまうと、「気短なイスラーム」が出来上がってしまうのかもしれません。
 
 例によって物凄い飛躍したアラだらけのお話ですいません。あんまり間に受けないで、急がず考えてみてください。あと、急いで殴るのもやめて下さい。

  1. だから贈与は非常に面倒くさいもので、わたしも大嫌いですが、人の世に生まれついてしまったので渋々やるしかありません []