表現の勝手、テロだけがテロじゃねえ

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 九州ファシスト党我々団の外山恒一が活動報告誌として発行している「人民の敵」27号収録「劇団どくんご終演後打ち上げ抜粋」に、以下のような下りがあります。
 文中「原田」は舞踏靑龍會主催の原田伸雄氏、「外山」は外山恒一氏。

原田 そもそもこういう”芸能”は、行き場のない奴とか、絶望した奴とか……「とりあえずテロはやめとけ。芝居があるぞ、踊りがあるぞ」というようなね。
外山 テロの代わりに……(笑)。
原田 いや、これ自体がテロなんだよ。実際に爆弾投げたところで、そんなものは”テロ”にならんぞ、というギリギリのところで集まってきたメンバーであれば最高なんですけどね。今は二極分解している。IS(イスラム国)に行く内1%ぐらいは、本来なら芝居や踊りをやるべき奴がいると思う。……ちょっと外山君、インターネットで呼びかけてよ(笑)。テロもいいけど、テロと云ってもいろんな形態があるんだぞ、って。
外山 テロだけがテロじゃねえぞ、と(笑)。
原田 そうそう(笑)。”本当のテロ”とは何かを考えるべきなんだ。そういうことが基本だと思うよ、表現者の。それは市民社会の理解なんか得られるはずがなくて、理解を得られたらおしまい。
(・・・)
原田 それは、こっちにも普通の生活者として”市民生活”をする半身はあるんだもん。外山君にだってそれはあるんだから(笑)。逆にその両極を持ってなきゃダメ。”ただのテロリスト”なんてものには何のリアリティもない。もちろんただの市民、ただの生活者であってもいけない。その両極の間のギリギリを示し続けるのが、ざっくり云えば、我々の役割だよ。
(強調は引用者による)

 これを読み解いていく上で予めいくつか補助線を引かせて頂きますと、外山恒一は07年の都知事選出馬で有名になった活動家で、ネット上などではオモシロとして消費されてきましたが、反管理教育に始まる筋金入りのアクティヴィストです。同時に、都知事選の政見放送をご覧頂ければ分かる通り、ユーモアに富んだ人物であり、劇団「どくんご」を長年サポートし続け、自身ストリートミュージシャンを生業とするなど、アート界隈にも通じる面があります。

外山恒一と我々団

 そしてこの外山恒一氏が「目指せ投票率0%、反民主主義」を掲げて展開している「ニセ選挙運動」(選挙期間中に街宣車で選挙ボイコットを呼びかける)を取材しているジャーナリストの織田曜一郎氏という人物がいます。彼は外山氏のこれらの活動を広義のアートの一貫として捉え、「芸術呼ばわり」することで再評価しようとしている人物でもあります。
 外山氏はアーカスプロジェクトでのイェン・ノー氏企画のパネルディスカッションにも参加しています。

イェン・ノー – “CAN WE TALK ABOUT MAVO?” マヴォについて話さない?日本のダダ・ムーブメントのための、日本(現代)美術の位相の仮設プラットフォーム <アーカスプロジェクト>
11/26 イェン パネルディスカッション「CAN WE TALK ABOUT MAVO ?  -マヴォについて話さない?」/’CAN WE TALK ABOUT MAVO?’ by Yen : ARCUS Blog

 また、2016年には、スイス大使館が主催したダダ100周年を記念するダダアートコンペティションに織田氏の制作したニセ選挙運動を追ったドキュメンタリが出品され、見事な組織票により一位を獲得しました。
 これらの経緯などについては、九州ファシスト党我々団の芸術部門を名乗るメインストリームが勝手に開催したダダ101周年イベントでの外山恒一・織田曜一郎対談でも語られています(後編末尾で自己決定というフィクションと「芸術呼ばわり」の関係について質問しているのはわたし)。

 今現在も外山氏は都議選に合わせてか、都内近郊を街宣しており、以下の記事でも話題にされています(動画にわたしもチラッと映っています)。

「共謀罪をものともせず」自称テロリスト・外山恒一が都内を街宣中 | 日刊SPA!

 この動画の中で「テロリストを自称して大丈夫なんですか」と問われた外山氏が「テロリストというのはテロ主義者ということで、テロの可能性を否定しない、ということ。テロを具体的に準備しているわけではない(が、やる時はこっそりやる)」といった返答をされていることは非常に重要です。わたしたちはテロというと、具体的なテロ行為のことばかり連想してしまいますが、言わば現実態になったテロ以前に、可能態としてのテロ、テロという手段の可能性という水位があります。そしてこのオプションは常に開かれているもので、暴力の可能性自体を否定することは端的に言って虚偽でしかありません。暴力自体ではなく「暴力の可能性」が存在しない世界などあり得ません。

 さて、このような前提の元に、ツイッターに連投したことを改めてまとめ直してみますが、わたしは表現の自由というものをあまり信じてはいません。それは勿論、「表現などどんどん規制されてしまえ」という話ではなく、権力に承認される形での表現の自由なるものについて、それほどの期待を寄せてはいない、ということです。
 強いて言うなら「表現の勝手」であって、規制がかけられようが危険に晒されようが、わたしたちには常に表現するオプションがあるのです。あらゆる制約から解放された表現などというものはあり得ません。常に制約は存在し、その制約との関係性において表現は存します。表現はその本性において政治的・越境的なものだからです。
 上で「芸術呼ばわり」を挙げたのは、このアートの政治性、あるいは政治のアート性を言うためです。アートはアート、政治は政治、と言ってしまった途端に、試験管の中に閉じ込められ窒息し息絶えます。勿論、外から見た境界というのは常に引かれるのですが、それを揺さぶり越えていこうとする運動が内在されていなければいけないし、その運動自体が既に政治でもあります。
 だから「表現の勝手」であり、乱暴なことを言うなら、暴力に晒される可能性を一切排除した表現など、既に表現の域からずれ落ちかけています。政治と芸術と暴力は地続きなのですから、安全地帯に押し込められた時点で去勢されています。これも実際には、比較的安全な場所とそうでない場所があるのは当然ですが、どこかに高い壁があって区切られている訳ではなく、てくてく歩いていけばそのままいつか境を越えてしまう、そういう関係にあるということです。
 今現在日本には表現規制に対する反対運動というのもあるのですが、これについても両義的な感想を抱きます。ある種の表現の「合法性」をナイーヴに訴えているのなら、死に体の表現を差し出す隷従でしかありませんが、この反対運動自体を一つの表現として捉えるなら、それもまた有意義かと考えています。ただ、ゾーニングという極めて大人の発想については、わたし個人は疑問を抱いています。
 ゾーニングが一定の範囲で現実的に機能するであろうことは間違いないでしょうし、わたし自身、例えばある種のシモネタが大嫌いなので、そうしたものが目に触れないように分けてくれるのは大変ありがたい話ではあります。ただそもそもの話として、これは表現者側の言うことなのか、という問いがあります。初めから撤退戦で、「この小さい範囲でコソコソやりますから勘弁してください」という調子に苛立つのです。重ねて言いますが、それくらいしないと許して貰えない強烈なPC化スターリニズム化が進行しているのは事実で、これらの論を訴えている諸氏を糾弾する意図は全くないのですが、何にせよ新たにラインを引く、法を立てる、ということは、長い目で見れば自分で自分の首を締めることです。また、ゾーニングの方向に進めばどこまで分断すれば良いのか、キリがないのではないか、という、領域国民国家の問題にも似た際限の無さ(あるいは分断の恣意性)も感じます。
 ゾーニングは要りませんし、法に守って頂く必要もないので、シモネタを振ってきた人間や失礼な人は個別に殴ります。

 さて、表現と暴力の話になると、最初に思い出すのはシャルリー・エブドの件です。預言者ムハンマドを侮辱する内容の風刺画を掲載した風刺週刊誌の本社が襲撃され、警官らを含め十二人が殺害された事件です。
 この事件について、実際にとられた手段、行われたことを括弧に入れて、主張だけを取り上げるなら、わたしは明白に「テロリスト」側を支持します。ただし、彼ら(や似た人たち)が行っていることで一番迷惑しているのはわたしのような人たちであり、本当に本当にやめてもらいたいし、この手の事件の度に深く深く傷つけられていますから、「テロリスト」を見つけたら私怨により、躊躇なくその場でわたしが殺します。
 その前提の上で、では風刺画など描くのはやめなさい、と言うかといえば、まあ心情的にはやめてもらいたいですが、その声を押しのけて描くべきでしょう。彼らが本当に命をかけて表現すべきだと思っているのなら、自らの魂をかけて描くのが正道です。その上で殺されればいい。そこまででワンセット、ミニコントです。
 いや、殺されればいい、は少し言い過ぎではあるし、具体的暴力に至る前に色々チャンネルはあった筈なのですが、それぞれの生き様をこの世に刻む、それは正に表現であって、尚且つ表現は多いに人を傷つけるのです。傷つけられた者は怒るし、仕返しします。それもまた表現です。テロもまた(巧拙や是非はともかく)一つの表現です。勿論、法はあちこちに線を引いてガタガタ言うでしょうが、そういう問題ではまったくありません。実害がどうのといった外野の声などまったく耳を貸す必要はありません。己の魂を掛けた戦いであるなら、誰が何と言おうが最後まで語り切るより他に道はありません。その上で地獄行きになっても悔いはないでしょう。殺すもアート、殺されるもアートで結構です。それだけの覚悟があるなら眼を開いて見届けましょう。

 そうは言うものの、当然ながら文字通りの狭義のテロ行為、暴力行為を手放しで是認する訳がありません。繰り返しますが、ある種の人々の「テロ」には心の底から迷惑して怒っています。それを煽るかのような言説、人々の怒りを敢えて受けに行くような振る舞いにすら、胸を抉られるような悲しみを覚えています。
 だから「テロだけがテロじゃねえ」なのです。
 上の引用の中で、「テロはやめとけ、芝居があるぞ」という原田氏に外山氏が「テロの代わりに」と言ったところで、原田氏が「いや、これ自体がテロなんだよ」と返しています。ここが極めて重要なところです。当然ながら、お芝居は狭義のテロではありません。にも関わらず、それもまたテロである、と原田氏は仰っているのです。
 このことは、外山氏が動画の中で言っている「テロ主義者であり、テロの可能性は否定しないが、具体的に準備することはまた別だ」ということとクロスオーバーします。狭義のテロ、現実態としてのテロの周りに、可能態としてのテロがあります。そしてこれも繰り返しですが、可能性としてのテロ自体を否定することは誰にもできません。どんな権力がそのような迷妄を喧伝しようと、可能性だけならどこにでもあるのです。
 非常に問題なのは、テロでなければ即システム、システムに取り込まれなければ即テロ、のようなナイーヴで幼稚な二極的構図です。システムは常にそう主張したいのです。己に隷属しない者は「テロリスト」であり、暴力であり、「罪なき市民」の安寧を脅かすケシカラン奴らで、人権など与えてはならない、と。ラインを引いて、その外の者は人外としてしまいたいのです。
 しかしそのシステムとは何者か。「お前は何様か」。それも人の作ったものに他ならず、国家であれ何であれ、神ならぬ者が神の顔をして振る舞う偶像ではありませんか。神様は唯一絶対、お一人しかいらっしゃいません。
 もちろん、いかなるシステムも存在しない社会などあり得ません。どんな原始的環境であれ、辺境であれ、システムは存在します。それを全否定するものではありません。上の引用の中でも、原田氏が「両極がなければいけない」と指摘されている通り、システムの側には誰しも片足だけは置かざるを得ませんし、置かないといけません。「”ただのテロリスト”なんてものには何のリアリティもない」のです。ある種の人々がもう片方の足を置く場所、そこが問題ですが、必ずしもそれは狭義のテロなどでありません。何か、隙間的なものがあるのです。システムの周縁には間があります。システムとその外部は、高い壁で区切られてなどいません。丁度政治とアートの間に壁などないように。
 それが「テロだけがテロじゃねえ」です。
 本当のことを言えば、わたしの中には(そして多分かなり多くの人々の中にも)「殺したい!」という気持ちがあります。シャルリで暴れたような奴らをわたしは殺したいですが、状況が状況なら、わたしがシャルリを撃っていたかもしれない。だからこそ、自らが一線を越えないための楔として、言い聞かせるのです。「テロだけがテロじゃねえ」と。それはテロを否定することではないのです。否定してしまうと、残りはシステムだけで、もう戦争しか残らないのです。戦う以外の方法を探すために、「テロだけがテロじゃねえ」と言うのです。
 殺すだけが殺す方法ではありません。その一方で、殺すことを否定するものではありません。その可能性が常にチラつきながら、尚且つ殺さない道を探るのです。可能性の時点でビビッて泣いているどこかのチワワか上品なお嬢様みたいな者は、言いたくないですが、さっさとくたばって頂きたい(お前らにはこの世で生きる最低限の強さがない。歯を食いしばれ)。これは何もトリッキーな話をしているのではなく、言ってみればわたしたちが生きているということ自体、いつ死んでもおかしくなく、でもなるべく死なないようにしよう、と過ごしていて、なおかつ、どんなに頑張っても死ぬ時は死にます。そうしたリアルな生の次元、当たり前の水準で、政治と暴力とアートというものを考える、ということです。出来合いのカテゴリーの中に収まった既製品ではないのです。
 テロならざるものが総てシステムの内側に回収されるかのような言説がトリックなのです。外山氏は「既存政党全部打倒」を掲げて選挙制度そのものに抗う運動、あるいはパフォーマンスを展開していますが、選挙などはシステム内に総てを回収する仕組みの好例です。本当のところ、選挙などというのは「あなた達の意見はもう聞きました、はい、これで締め切りです」という為の方便に過ぎないのですが、少なからぬ人々がこの迷妄に酔わされ、あたかも自らの意志で国家に己を預けたかのように思い込んでいます。ちなみに言うなら、この人々を「覚醒」させようとするのがボルシェヴィキ的手法で、これが全くうまく行かないか、ディストピアを作り出すだけなのは言うまでもありません。大衆は覚醒などしません。むしろ大衆こそが敵です。
 可能性としての暴力すら排除されればシステムしか残らず、そこにはアートもありません。政治と暴力、外部との交通を失ったアートは養分を失って枯渇します。だから間の領域、隙間というものを模索しないといけません。「テロだけがテロじゃねえ」の言うテロならざるテロ、アートならざるアート、そういうものを求めて常に根を伸ばすより他にありません。
 そういう隙間というのは、システムによって不可視化されているだけでそこかしこに存在しています。放っておけばシステムの強力な吸引力によって吸収されてしまうのですが、引っ張られ取り込まれつつも、牛歩戦術的なあの手この手で抗い、時間をかけさせています。総てがシステム化する世界とは、短絡=ショートの世界です。これに対し、テロならざるテロ、アートならざるアートとは迂回であり、時間稼ぎであり(生きている時間を稼ぐ!)、抵抗です。
 これが良い抵抗と悪い抵抗などというものはないで触れた抵抗です。ここでの抵抗とは、電子工作で使うあの抵抗をイメージしています。何かが透明な通過点となることを阻んでいます。直結、短絡、ショートに対して抗っています。すべてがシステムに取り込まれる世界は、完成したスターリニズムであり、超電導です。テロだけがテロで残りはシステムという短絡です。勿論システムから見れば抵抗は邪魔者なのですが、邪魔している間だけわたしたちはは生きています。それが生きるということなのです。生きるのは無様で格好悪いものです。
 もう一つついでに言うなら、短絡というのは「わかる」ということでもあります。簡単にわかってしまってはいけません。世界のほとんどはわからないのが当たり前で、パッと理解できることというのは、自分の知っている狭い了見に引きつけて勝手に了解してしまっているだけのことです。わかるというのは短絡=ショートであり、意味に堕ちるということです。すぐわかる意味というのは、固定的でモノに張り付いたような意味であって、わかりの良いものをいくら繰り返したところで、そこから何の運動も智慧も湧き上がってきません。意味に辿り着く前の一瞬のひっかかり、それが抵抗です。そこにわたしたち自身がいるのです。わからないことを前提にした上で、ついに意味が発見される時、その意味は対象ではなく、わたしたち自身の内側で見つかるのです。あるいは、わたしたち自身の意味が、そこで発見されるのです。その時、雷に打たれたかのように、身を守ってくれていた筈の皮膚が、その抵抗自身によって(完全なる伝導体ではなかったが故に!)燃えおちます。発見されるわたしたち自身の意味とは、この黒焦げの残り滓なのです。

「わかる」ことについては、
真理はいつも遅れてやって来る
わからないことを畏れよ
などを参照。

外山氏と「抵抗」については、
「良い人」たちと戦うこと、トランプと組むことも辞さないサンダース
など。

 それから、外山氏が支援している、というより追っかけているどくんごは今年も全国を回っていて、わたしも先日横浜で観劇致しました。今まで何度もどくんごのお芝居を拝見しているのですが、その中でも最高、わたしの人生の中で一番素晴らしい観劇体験となりました。どくんごのやっていることは、正にバラバラの言葉が、わたしたち自身の内側で意味を生成する、ということです。劇自体にはストーリーもなく、バラバラの言葉が投げられ続けます。だから見つかるのは、芝居の意味ではなく、わたしたち自身の意味なのです。わたしが誰なのか、そんな問いにこたえられるのは神様しかいらっしゃらないのですが、一瞬でもその片鱗を垣間見させてくれる素晴らしい作品です。終盤ずっと裸にされたように泣き続けていました。是非機会を見てご覧になられることをお薦め致します。