死ねばそれ以上死なない世界で囁き続ける

 安心安全との闘争、という次元がある。
 良い抵抗と悪い抵抗などというものはないから始まる一連のお話に関連するのだけれど、ベタなことを言えば管理社会であるとか全体主義であるとか、そうしたものとの闘争という伝統的な文脈で言えば、今日のスターリニズム的PC的世界への抵抗とは、そこで提供されている安心安全というものにいかに抗うか、という点に至りつく。暗い夜道にも防犯カメラが設置されて女性でも安心でして歩ける世の中である。
 当然ながら、この闘争は大衆的支持など全く得られないし、わたし自身も嬉しくない。このフラットでバリアフリーな清潔な世界は、自由というものを確実に刈り取っていくのだけれど、その自由を旗印に左派大学人のような人たちがいかに「正しい」ことを言っても聞いては貰えない。言い尽くされたことだが、ほとんどの人はそれほど自由に飢えてなどいないし、今現在も飼いならされた欲望に従ってそこそこの自由を享受していると信じているし(そのくせ中国や北朝鮮には自由がないと思っている)、人がパンのみによって生きないにせよ、自由よりはパンの方が相当順位が上なのだ。我々はもう大分以前に高度消費社会とグローバル資本主義に足腰立たない程コテンパンにやられて、とっくに周回遅れになっている。
 暗い夜道に防犯カメラが設置されたとして、大多数の人々は「か弱い女性」の方に感情移入していて、自分が襲う側とみなされ、夜道よりももっと暗い場所に連れて行かれることは想像しない。唯一例外的に痴漢冤罪の問題だけはなぜか痴漢とみなされた側に随分と同情が集まるのだが、何を今更と鼻白む。そこで今頃ヒステリックに喚くくらいなら、いっそ徹底して「か弱い女性」に移入して、いつ何時でも犯罪者に仕立てられる痴漢管理社会を推し進めた方がまだ壊乱的にも思える程だ。
 この安心安全は、死ねばそれ以上死なない涅槃スターリニズムだ。病気にならない、事故にあわない、怪我をしない、できれば死なない。フラット化の極北にはそういう世界がある。個の集合としてしか全体を考えないなら、ある種「永遠の生命」にも似た極楽浄土が地上の理想になるし、そこに向けて社会全体が邁進している。なるほど、素晴らしい。だから誰も抵抗できない。抵抗は悪である。
 繰り返すが、この世界にあって「自由」など叫んだところで全くの無駄である。だから安易なオルタナティヴを示す思想は総て眉に唾をつけて聞かなければいけない。言い換えれば、「ヴィジョンある代替案」だ。「代替案を示せ!」というのは「野党」に向けられる常套句だが、はっきり言って代替案など示しているからダメなのである。正確に言えば、ささやかな改革程度なら何かはできるのかもしれない。しかしそれらはすべて安心安全の釈迦の掌であって、少なくともこのフラット化と抵抗という問題系について言えば、ヴィジョンなど一切無効である。もう全然、周回遅れで話にならない。「代替などない、ヴィジョンなどない、もうダメだ」と身も蓋もないことを言う方がまだいくらか正直である(もちろん役には立たない)。
 既に大きい声はすべて使い物にならなくなっている。そう言っているわたし自身が安心安全を享受しダイソーで買い物しているのだから、思想の正当性や実現可能性など謳われたところで、自らの理性の方を先に疑ってかかる。我々は常に状況の中にいるのであって、走りながら銃を撃つなら声の大きいものから先に死んでいく。悪いけれど、わたしはそんな役は御免である。
 だから小さな声で話さなければならない。目立たないようにこっそりやらないといけない。目を伏せ声を低め、囁くのだ。勿論、真理ではない。事実ではない。未来でもない。正義でもない。勿論テロの策動でもない。「わたしは知らない、しかし……」。
 何か、残りがある。それは死んでいないし、事実、わたしたちは必ず死ぬ。本当のところ、不安は偏在していて、安心も安全もまやかしに決っているのだ。ただ今日の不安には名前も顔もない。一つひとつが違う顔をして、わたしたち一人ひとりのコアに纏わりついている。その不安の中で初めて息づくものが、涅槃になど入らず本当に脈打ち生きているものが、今現在に至って、人々の間の細い細い隙間に散って、それぞれの一回的なものとして生まれては消えている。名前はない。一つひとつは儚くさしたる力にもならないし、重要なことに、これを拾い上げ集めた途端に別のものに変質してしまう。団結、ではないのだ。
 わたしたちは小さくか弱く、つまらない存在だ。現れては散っていく、風に溶ける紫煙にも似た自由と抵抗を嗤うほどのものではない。災害ユートピアではないが、その世界は目覚めた途端に模糊として指の間を抜けていく夢としてしか現れない。しかしそれは夢ではなく、確かにあったし、現実界の欠片を(千切れたボタン!)をわたしたちの手の中に残していく。
 消えたとしても、終わってはいない。わたしたちはまだ生きているし、大切なものはやってきては気付いた時には通り過ぎている。だから額を突き合わせて相談などしても無駄だし、声を高くしても意味はない。自身の中に座標をもって、瞬間瞬間の状態を生きなければいけない。一回的なものを見逃してはいけないし、その時に最善を尽くせればそこで終わっても良いではないか。
 出会い頭に斬れるかどうかが問題なのではない。柄に手をかけて死ねるかどうかだ。
 そのためには小さな声で囁くのをやめてはいけない。声を荒げてはダメだ。それは正義になり、事実になり、辻褄が合って、すぐに腐乱する。
「わたしは知らない、しかし……」



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