見苦しくちゃんとする

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 ちゃんとする、ことについて考えている。
 はじめにおことわりしておくが、もの凄い狭いニッチにいる人以外には全然関係のない話だ。
 コピーは「ちゃんとしよう、革命家! ちゃんとしよう、芸術家!」。
 正確に言えば、「本当はあんまりちゃんとしてないけれど、ちゃんとしたフリの大切さを分かち合う」ことである。「ちゃんと」と「ちゃんとしてない」を両方を同時に持つと言っても良い。
 ちゃんとする、とはどういうことか。
 ここでの「ちゃんとしよう!」は、初めから一貫してちゃんとしている人、あるいは、かなり早い段階、高校卒業とか大学卒業、せいぜい二十代半ばすぎくらいまでに「ちゃんとした」人には向けていない。そういう人は普通の人か、特に面白くもない人で(もちろん面白くなくても立派なものだ!)、触れ合うことはあるが、積極的に求めることもない。おめでとう、祝福あれ。
 また、ちゃんとしよう、ちゃんとしよう、と思いながら、様々な事情でちゃんとできなかった人についても、余り考えていない。例えば、「正業につく」ことは「ちゃんとする」ための必要条件という訳でもないが、多くの人は気付いた時に「正業につく」ことを「ちゃんと」の一大要素として脳みそに刷り込まれてしまっているので、そういう人にとっては「正業につく」ことは大切だろう。そしてこの人達が、頑張って就職活動をした挙句、やっぱり仕事が見つかりませんでした、というパターン。こういう人たちは、その人達の個人的な内的基準や、社会的評価については十分にはちゃんとしていないのかもしれないが、既に「ちゃんと」に向けた志向性を強く持ちかつ行動に移せている。ある意味、既にちゃんとしているのではないかと思う。
 問題は「ちゃんとしてられっかよッ」みたいな態度でずーっと来たタイプの人間である。
 この「ちゃんとしてられっかよッ」も二十歳を過ぎてあまりにあからさまだと早々に犯罪者のレベルになってしまうので、多くの場合は、そうは言ってもそこそこシノいでいたりはするのだけれど、自らの生の根底部分に「ちゃんとしてられっかよッ」が流れていて、何をやっていてもどこかにその頭がある、という人たちだ。恥ずかしながら、ワタクシなどもこのタイプの無駄に尖ってきた人間である。
 ついでながら、一般論として、早い段階で尖っていた人間は丸くなるのも早いが、遅れて尖りだした人は丸くなるのも遅い。また、尖り方のタイプが単車を盗んで喧嘩する、みたいな少年チャンピオン的なものであれば、ステロタイプ化しているせいか早々に始まってさっさと終結する、というか、そうでない場合は即犯罪者だが、もうちょっとこじれた文化系タイプ、政治運動やアートなどの場合、やっていることがややこしいせいか、なまじ即犯罪ではないせいか、長期化する場合が多いように見える。
 おことわりしておくが、ここで言いたいのは「政治とかアートとかは下らんからさっさと卒業しろ」のような話では全くない。詳しくは後述する。アートでも何でも死ぬまでやっていても別に罪ではないし(勿論やめてもいいが)、むしろそれが自らの業なら死ぬまで恥をかきながら背負うべきだし、まかり間違って芽が出ることもあるかもしれない。そういう問題ではなく、外面というか、コードを遵守する、というお話である。
 手順を踏むこと、順番を守ること、平たく言えば礼儀作法、礼節のようなことだ。宗教や性といったセンシティヴな話題については慎重に避け、下品な話をしない、立ち入った話をしない、必要な場合には十分に時間をかけて信頼関係を築く、という、全く常識的なお話で、世の中のほとんど人たちが自然にやっていることである。個性を殺す、普通のフリをする、と言ってもいい。
 先輩のグラスが空きかけていたらお酌する、系のお作法もある。勿論、お酌などに何の意味もないことは明白で、そんなことを全然気にしない先輩は放っておいても問題ないが、世の中にはそういうよくわからないルールを大切にしている人たちが一定数いる。その人の考えを間違っているだの古いだの言っても、世界が変わる訳ではない。しかもより強い立場にいる。そういう時にはガタガタ言わないで黙ってお酌をすれば良いのである。それだけでお小遣いが貰えることもあるからウィンウィンである。これも全く当たり前のことで、普通の人は遅くても社会人三年目くらいまでには習得している。
 一方で世の中には「変な人」というのがいて、その人達の中にはこれらのコードを頑として学ばない層というのがある。再度ことわっておくが、これらの人々が大切にしている政治活動やアートやら学問やら、そうしたことが問題なのではない。どういうわけか、それらの尖った活動とコードの軽視というものがワンセットになっている場合がある、ということだ。
 また、先天的か何か、どうしてもコードがなかなか習得できない、という人たちもいる。そういう人たちには罪はないのかもしれないが、罪もない者を棒で殴るのがある種の義務なので1、悪いけれど顧みない。病気でも何でも当然人権があるが、それを振りかざしわざわざプロフィールに掲げるような種類の人間が人から歓迎される訳がない。ほとんどの人は面倒臭いことが大嫌いなのだ。歯を食いしばって嘘をついてでも弱みを隠すしかない。この世はいつでもクソである。病気でも罪でも隠し事でも、背負ったものは責任の有無に関わらず極力墓場まで一人で運ぶしかない。それをダラダラに垂れ流せば本人はスッキリして受け入れられた気分になるかもしれないが、周りは良い迷惑である(余談ながら、浮気の告白も似ている。するなら死ぬまで隠せ! できないならするな! 事実や「誠実さ」など自己満足以外の何者でもない)。すべてを受け入れてくださるのは神様だけだ。もちろん、迷惑というはお互い掛け合うもので、一定の信頼関係があれば場を限定して吐き出し合うのは大いに結構、そういう場がもっとあって良いと思うし、例えば家庭内などではどこでも似たような泥の吐き合いが多かれ少なかれあるものかと思うが、これも時間と手続きを踏んで初めて成り立つもので、わたし個人は(家の外では)一切関わりたくない。
 で、最近のお若い方たちのほとんどは、こんなことは言われるまでもなく自然に習得されていて大変素晴らしいのだけれど、もう少し上の世代、わたし自身を含むくらいの年代の人間は馬鹿がなかなか治らない。そして治ったら治ったで、それ以前のことを「若気の至り」で一蹴してしまう。この両極端が実につまらないのである。
 なぜ「一蹴」という現象があるのかと言うと、端的に言えば心の弱さから来ているもので、わたしたちには何かを「終わらせたい」「終わったことにしたい」という欲がある。そもそも、始まりの明瞭さに比べて、終わりというのはいつでもはっきりしない。ちょっと過ぎた辺りで振り返って「あの時、終わっていた」と初めて気付くのだ。生まれた日はわかっていても死ぬ日はわからないし、死ぬことにしたところで、「ご臨終です」と言ってもらわなければはっきり引き返し不能地点を過ぎたとも言い切れない。ある種のチンパンジーの社会では出会いの挨拶行動はあっても別れの挨拶は見られないそうだが、始まりと終わりは対称にはできていない。だからこそ、宙ぶらりんな感じがいつまでも続いて気持ち悪く、「はい、もう終わり、終わった終わった!」と言いたいのだ。
 しかし悪いけれど、人生はそれほど甘くない。始まってしまったものはいつまでも身に纏わりついて離れない。それを一旦括弧に入れるということは可能で、正にそれこそが「ちゃんとする」なのだが、それ以前の「ちゃんとしてない」が消えてなくなった訳ではない。なくなっていないからこそ、自分自身に言い聞かせるように「若気の至り」を小馬鹿にし、大上段なお説教を垂れ流す。繰り返せば繰り返すほど恥の上塗りで実にみっともない。恥をかくのは本人の勝手だが、見ている方もしんどくなるので視界に入れたくないのである。
 そこで、「ちゃんと」と「ちゃんとしてない」を両方を同時に持つというお話になる。表面的にはあくまでちゃんとしている。大人である。しかしチラッと「ちゃんとしてない」ところも見える。全開ではない。たまに油断して子供な部分がちょっと見えるくらいが色気というものである。そういうものが全然ない人間はつまらないし、全開の人はただの露出狂だ。
 言うなれば「見苦しくちゃんとする」ということだ。「ちゃんとする」ことを手放しに礼賛し他を顧みないのではなく、むしろ後ろ暗さがあるくらいなのだけれど、そこで敢えてかっこ悪いことをする。その上で、少しだけ「歪んだかっこ良さ」が漏れる。それくらいが丁度良い。
 こう書くと、また実に当たり前の話で、特に何の新しみもないのだけれど、わたし個人が濃すぎる人と接する機会が普通の人よりいくらか多かったせいか、大きく迂回路を辿った末に当然の場所に今頃至りついている。ちょっと変で面白がりで、コアな「ちゃんとしてなさ」を分かち合っているけれど、塩梅というものを弁えていて言葉も身なりもきちんとできる、そういう異様にニッチな狭い集いはちょっと面白いかと思う。
 勿論、こんなことを今更言っているわたしが一番ちゃんとしていなくて、世間から見ればこの時点で相当頭がおかしい訳だけれど。

  1. 嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしても []



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