大きいものと小さいもの

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 結局、量的な問題、スケールの問題で、大きいものと小さいものを分けて考えないといけない。小さいものがどんどん膨らんで大きくなるのではないし、そうなった時には既に別物になっている。
 大きくなればそれはシステムということで、システムはある意味、常に正義だ。なぜなら正義を規定しているのはシステムだからだ。
 もし小さいものこそを居場所として、システム的なものの触手を能うる限り振り払おうというある種子どもっぽい姿勢を維持しようとするなら、一見すればシステムを極力小さくする方向が正解にも見えるが、実はそうもならない。例えばスターリニズム的なものが脅威だとして、それは確かに脅威なのだが、一方で敵が一つである点では良い面もある(そもそもスターリニズム的支配自体を否定するものではなく、いずれそっちこそが「正義」なのだが)。一方で、アナルコ・キャピタリズム的なものが野放しにされれば、彼らは決して「小さいもの」に留まらず、暴虐な個が忽ちにして「大きいもの」となり、分散的に支配する。この支配がスターリニズムよりいくらかでもマシなのかは疑問の残るところだ。ある意味、「テロとの戦争」をネガにした世界でしかないようにも見える。
 ここで逃げ惑う「罪なき一般市民(という存在しないもの)」に身を置くか、「テロリスト」またはバイタリティ溢れるオヤジに同化するか、あるいはまた正義としてのシステムを上り詰めるか、そういう選択肢を想像してしまう時点で既に負けているのだ。わたしたちには大きいものも小さいものも両方必要なのであって、どちらか片方に目をつむって駆け込んだところで、どっちの出口にも泥んこ風呂しか待っていない。両方、不正解だ。
 システムが正義なら、わたしたちは正義でもあるし、悪でもある。だから塩梅の問題である、と言ってしまうとこれも袋小路で、理想的なバランスなどという不毛な議論に落ちるしかない。では何かと言えば、わたしたちは例外なく弱く、そして嘘つきだということだ。昼には昼の顔、夜には夜の顔、である。
 勿論ここでも問いは残って、では嘘をついているのは誰か?というものだ。嘘をついているのはわたしなのか。そうかもしれない。しかしまた、わたしはわたしにも嘘をつかれている。何か、嘘をつく者が機能している。それはわたしにとってはわたしではないが、わたし以外にとってはわたしである、わたしの背中のような場所に張り付いている。
 多分、一番危ういのは、嘘をつけなくなってしまった時だ。嘘をつけなくなる瞬間というのがある。あらゆる解離を拒んで完全なる統合を求めた結果としての「統合失調」のような、そういう瞬間がわたしたちにはある。その時、わたしたちは全き正義や悪へと「堕ちて」しまい、あとは奈落の底まで一直線である。
 誰かが嘘をつくことで、大きいものは大きいもの、小さいものは小さいものとして、機能する。



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