嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしても

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 「嫌い」を「正義」に言い換えるな、というお話があります。
 要するに自分が嫌い、気に食わない、というだけのことなのに、それに色々と屁理屈をつけて、さもそれが正義であるかのように、正しいことであるかのように偽装するな、ということです。それくらいなら素直に「嫌い」といいなさい、ということです。
 これは誠に尤もなお話で、その通りかと思います。
 ただ、では嫌いなものを嫌いと言ってことが済むのかといえば、もちろんそういうわけではありません。
 正義を振りかざしている人びとの中にも、薄々「これは単に気に食わないということやろな」と気付いていて、でもただ顔が気に食わないとか臭いとか言っても埒があかないので、それなりに理論武装して味方を増やし、気に食わないヤツをとっちめてやろう、という人もいるでしょう。
 嫌いなら嫌いと言え、というのは尤もなのですが、嫌いとは言えない状況もあれば、ただ嫌いと言うだけではどうにも収まらない嫌い加減、というのがあります。かなり頻繁にあるでしょう。
 目障りなヤツはぶっ殺したくなるのが人間です。
 もちろん、一々ぶっ殺していたらキリがないですし、世の中めちゃくちゃになりますから、ぶっ殺したくてもぶっ殺してはいけません。それは「嫌い」と思っている人でも、大概は知っています。
 ぶっ殺したいな、ぶっ殺すとマズイからぶっ殺さないけど、蹴っ飛ばすくらいならいいかな、それも悪いなら何か口でやりこめてやろうかな、上履き隠してやろうかな、みたいな譲歩の結果、武器としての正義がやって来るのです。
 ですから、「嫌い」を「正義」に言い換えるな、というのは確かにその通りなのですが、その辺を既に織り込み済みの上で世の中には正義というものがあるわけで、そう言われたからといって「正にその通り!」というカタルシス以上のものは得られないようにも思います。
 とにかく嫌いだ、目障りだ、視界に入るのが許せない、地上で呼吸しているのも看過できない、みたいなことはあるのです。
 そっちの方に対して「それは仕方ない、世の中には色んな人いる、仲良くしなさい、我慢しなさい」というだけでは、それは正義を振りかざす人もそうそう手を下ろさないでしょう。拳を下げるのが割に合わないですから。
 嫌いな気持ちがどんどん高じて「ぶっ殺す」になるまでには、それなりな経過と理由というものが必要で、例えば自分の内面の問題がそこに投影されているとか、それなりな背景があるのでしょう。でも普通は、「我慢しなさい」「暴力はいけません」というだけで、そんな深いところまで拾い上げて助けてあげたりはしません。
 ぶっ殺されそうな「目障りなヤツ」は、「かわいそう」なところがあるので、うまくすれば多少なりとも味方を得られるかもしれませんが、「ぶっ殺す!」と思っている方には、ただ怒って棒を振り回しているだけでは誰も味方になりません。だから正義が出てくるのです。
 ある種、仲裁の手段として正義というものがやって来るのであって、場合によっては、正義で味方を増やしてそれなりに衝動を中和されることで、ぶっ殺すところまではとりあえず行かなかった、ということもあるでしょう。
 逆に言えば、正義というのはその程度のもので、正義が「本当の正義」であるかなど誰にも分かりませんし、仲間を増やす鈍器の一種のようなものと考えておいて大体当たっているでしょう。
 そしてまた、いかに正義が振り回されようと、あるいは「本当の正義」への探求が進められようと、「目障り」というものが世の中から消えることはないですし、いかなる正義にも回収されない「目障り」、悪というものは、この世にあり続けるでしょう。
 悪は悪なので悪いものなのですが、そういうのがあるのが世の中で、「嫌いなら嫌いと素直に言え」と「正しい」ことを言ったところで、世の中は別に正しくないし、正しくあるために世の中があるわけでもないので、まったく了解不可能なものとして薄壁一枚向こうに理不尽な世界があるのです。
 「嫌いなら嫌いと素直に言え」というのもまた正義であり、鈍器であり、仲裁し「ぶっ殺す」を緩和するためのものだからです。
 こう考えてみると、正義を振りかざすのも、振りかざした正義を批判するのも、色々込みでしかたない、あぁしかたないな、という風に見るしかなくなってきます。
 ただ、振りかざす正義すら見つけられずに素手で誰かを殴ってしまった人がいても、それをまた正義で殴るのも白々しく、あぁこの人は悪につまずいたのだな、運が悪かったのだな、そういう血が流れていたのだろうな、と思うのです。
 こういう人は不器用な人で、多分あんまり頭が回る方じゃなくて、しかも運が悪いのですが、ある一面ではよりリアルというか、素直なところもあるのです。そういう悪さというのがあって、世の中ははじめてこのようなものとしてあるのです。皆が皆鈍器を握っていたとしても、握っている手はやはりわたしたちの手で、その手を別の使い方をすることもできるのです。
 そういう運の悪い人を、わたしたちは鈍器で殴らないといけないのですが、鈍器を握っているものこそわたしたちの手なのだ、この手がなにをするのか、わたし自身にも確かなことなど何も言えないのだ、と感じます。
 ただ、運の良い人と運の悪い人がいます。



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