以前に嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしてもということを書きました。
単に「嫌い」ということに何らかの「正当性」の装飾を付けることで正しさを装うな、という声はまことに尤もではあるけれど、そもそも正義というのは鈍器であり装飾品なわけで、正義の存在にはすでにこの点が織り込まれているのではないのか、というお話です。
この記事でも書いたことですが、わたし自身は「嫌いを正義に言い換えるな」という感覚自体にはとても共感します。直観的にはそう感じます。
ただそういう人は、一方で鈍器や装いではない「本当の正義」の存在をナイーヴに前提としている風があり(そうでもないのでしょうか)、だとしたらことはそう簡単ではない、ということです。正義はいつだって「本当の正義」を主張するのですが、裸で「本当」であるものなどどこにもないのです。ですから、正義の中から「本当の正義」と「偽者の正義」を弁別する、というアプローチは極めて限定的にしか機能しないでしょう。正義は逆説的にも、根も葉もないものだから根が深く、駆逐することも見分けることもできないのです。
そうした方向に行くより、「正しさ」というもの自体を相対化し、ものごとを選び判断する上での価値判断の一つに留める、という方がうまくいくように思います。というより、世の中は実際にそういう風にできていて、「正しさ」で選ばれる場合もあれば、別の基準(のようなもの)で選ばれる場合もあります。これが「正しさ」の寡占状態になってしまうと、「正しさ」過剰というか、正義が前に出過ぎるちょっとディストピア的な風景になってしまうのです。
「可愛いは正義」というフレーズがありますが、文字通り「可愛い」は「正義」のように振る舞うことがあり、別に「正義」ではないけれど、「可愛い」がゆえにそれが選択される、ということはよくあります。
「喧嘩の強さ」というのもよく働いています。というより、「喧嘩の強さ」というのは正当性の更に外側に位置し、世の中の縁ぎりぎりくらいのところは大体「喧嘩の強さ」で埋められています。政治力だって軍事的裏打ちがあってはじめて機能するものです。もちろん、だからといって「喧嘩の強さ」がそのままですべてを解決するわけではありません。こういうのはじゃんけんのようなもので、「喧嘩の強さ」が「可愛さ」に負けたり、裏から支えてもらったりすることもあります。
要は、ものごとが選ばれたり決まったりする際には様々な価値判断が働いていて、「正しさ」というのはその一つに過ぎない、ということです。繰り返しますが、この「正しさ」は本物か偽物かを問いません。
ただわたしたちは言語の中で暮らしていますし、「正しさ」にはその内部で特別な位置づけがあります。言語は抽象化・カテゴリー化する働きがありますから(正確に言えば言語の書き言葉的・視覚的機能)、今ここで述べているような「様々な価値基準」というものをリスト的にまとめて、抽象化しメタから見下ろす、ということができます。つまり、「正しさと喧嘩の強さなら、正しさが正しい」みたいなことが言えるわけです。このフレーズ自体はちょっと面白いことになってしまっていますが、そういう風に「諸価値」自体を「正しさ」で比べるような、そういう芸当ができる、ということです。
「正しさと喧嘩の強さなら、正しさが正しい」という人に対し、「喧嘩の強さ」はしばしば「いや、正しさと喧嘩の強さなら、喧嘩の強さが正しい」というような反論をします。しかしこれは(戦略的に)間違いです。こういう考えはすでに「正しさ」に汚染されていて、始める前から負けています。正しくは「正しさと喧嘩の強さなら、喧嘩の強さが喧嘩が強い」と言わなければなりません。そうなると、まったく話が噛み合っていなくて、これまたちょっと面白いことになってしまうのですが、それで良いのです。喧嘩で勝てば良いのですから。
こういう風に、世の中は長いこと「正しさが正しい」とか「喧嘩の強さが喧嘩が強い」とか、冗談みたいなことを言い合いながらせめぎあってやってきたわけです。その中で「正しさ」が多少主張されたところで、「正しいからなんやねん」という人たちは沢山いて、出すぎず引きすぎず、程々のところに「正しさ」はあったのです。
「嫌いを正義に言い換えるな」というような(まことに尤もな)主張が出てくるということは、現状「正しさ」がかなり幅を効かせている、ということです。世の中の正義を愛する人達は、「何を言っている、世の中には不正義が溢れかえっているではないか」とお怒りになるかもしれませんが、おそらく歴史的・地理的に考えて、現代日本というこの環境はかなり「正しさ」が頑張っているところで、むしろ頑張りすぎて過剰なほどではないかと思います。だからこそ「正しさでゴリ押しするな」という、高度な感性までが育っているのです。
個人的には、「正しさ」が出すぎていてちょっと気持ちが悪いので、もうちょっとバラけてくれている方が風景として健全で面白いと思うのですが、だからいって「正しさが多いのは正しくない」ということはできません。常に「正しさの方が正しい」からです。できることと言えば、「喧嘩が強い方が喧嘩が強い」とか「可愛い方が可愛い」と言ったり言わなかったりしつつ、喧嘩で勝ったり可愛かったりすることくらいです。
とはいえ、そんなに無理をしないでも、ちょっと視野を広げれば「正しさ」はまだまだ十二分に弱いです。弱いというか、ほどほどの強さです。
問題は結局、わたしたちの心に「正しさ」が刷り込まれすぎているということで、そこを少し、頭を柔らかくしないといけません。もちろん「正しさは正しくない」とは言えませんから、ただただ喧嘩が強くなったり可愛くなったりすると良いです。正義の味方に見つからないよう、こっそりと。