膜、排除、鶴の恩返し

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 リベラルやら知識人やらと称される人々が少し別分野になると途端に「膜に覆われた」昭和親父に成り下がる場面は見飽きている。懐疑と知性も何らかの確実性(と信じられるもの)に依拠し、確実性は常に外部の排除によって成立する。「色恋沙汰」が特権化されている時点で排除による共同体でしかない。
 彼らの知的水平性やギルド的仲睦まじさも、「ユダヤならざるものとしてのヨーロッパ」でしかない。勿論このホモソーシャルな共同体は意識されずに運営され、綻びが見えると私的空間の分離という名目で隠蔽される。それが私的であるにせよ、何が私的かは公的性質を帯びるにも関わらず。
 だから彼らを理解するには、彼らが否認するもの、疑い得ない確実性として防衛されているもの、打てば硬い壁の如き反響が(怒りや苛立ち、不快感と共に)返ってくる場所を見なければいけない。強い身振りには常に意味がある。勿論言葉通りの意味ではない(無意識に否定はない)。理解できなさ、興味のなさなどが振りかざされる時、そこには何か、理解できてしまっては困るものがあるのだ。そこが彼らの世界の輪郭であり、その外部に不可触民を置くことで維持される城塞都市の壁である。
 念の為に付言しておくが、この城塞都市があること、彼らに「それなしでは自分が自分でなくなってしまう何か」があること自体は、別段罪でも何でもない。誰にでもささやかな物語があり、それに縋って生きている。後述するが、問題はその防衛の過程で「避けがたい犠牲」の如く放逐される不可触民、あるいは特定の問題系の存在だ。
 フェミニズムはこの城塞都市への砲撃を加えるし、そこには大きな成果があったが、旧来のものはやや一本調子に過ぎる面もあった。構築論という「気高き約束事」の防衛に振り回された所はあっただろう。今この時代となって、100%本質主義100%構築主義という人はいないだろうし、状況は複雑に進展している。素朴本質論への退行は論外だが、一方で本質主義適側面を部分的戦略的に活用することは可能だろう。本質論的差異があることと、社会的約束事としての平等性があることは、それぞれの次元で同時に成り立つし、同時に成り立たせないといけない。社会構築論とは、社会的に既定される人間理解の約束事である。約束を約束として守ることと、その向こうに物質的・生物学的側面があることは矛盾しない。約束は物質に基礎づけられるものではないからだ。

 田山花袋の布団が「私小説の祖」と言われるのは、田山の託された主人公の自分語りという意味ではなく、彼が女性に対し、(漢文調の記述的文体ではなく言文一致的な)「私」として語ることや(内面を持つ)近代的自我への立脚を説きながら、いざ彼女たちが「私」として語り始めると、途端に恐れを為し、腰砕けになり逃げ出す、その様の抉出にこそ依るとは大塚英志の論である。彼らは口先では立派な口上を述べるが、少なからぬケースで、自らがいかに女を巡る物語に囚われているか自覚していない。自分の見ている「女」が、実のところ膜の上に映し出された虚像であることに気付いていない。用意がないので、不意に剥き出しのものが現れると恐慌をきたす。
 神話的に言えば「鶴の恩返し」である。献身的な女性「つる」が実は傷ついた鶴であることが露見した時、彼女は「外部」へと、ここならざる異界へと追放される。本当の剥き出しの姿を表してしまうと、彼女は「この家」にいることができないのだ。剥き出しの女、「私」と語る女、膜越しではなくなってしまった女の異界追放とは、「ユダヤならざるものとしてのヨーロッパ」構築と同値である。

 「膜」によるファンタスムは「君の中に君以上のものを」見るもので、良くも悪くも性関係の不可能性を隠蔽する。「見るに耐えない」対象を、膜に投影された像を通じて受け入れ可能なものに見せかける。機を織る美しい「つる」が膜に映し出されることは、「可能であるかのような性関係」の演出に益する。我々は常に「出会い損ねる」のだが、出会えるかのような、出会っているかのような幻想の元に、共同体は維持される。だからこの幻想それ自体を害悪として否定するものではない。膜には様々な効果があるが、それによって外界を見ない者にも、本体を隠し逸らかす側にも一定の利得があり、これを前提として人類社会は構築されている。この公理から出発して複雑に入り組み繰り返されるゲームこそが文化現象とすら言えるだろう。
 問題は「つる」が鶴であることが露見した時、その手負いの鶴といかに向き合うか、だ。鶴は「あちら」に帰るのか。とどまるか。あるいは共にあちらへと向かうのか。
 女たちは勿論「つる」ではなく鶴なのだが、しかしまた「つる」も女の一部であり、同時に彼らの一部(彼らの膜に映し出される彼らの幻想)である。重要なのは、「つる」と鶴がニにして一であり、同時にそれが「私」として語ることだ。我々はここにいるし、どこにも行かない。
 繰り返すが、「膜」は単なる害悪ではない。それは彼らにとって外界を見えにくくするが、同時に彼らを守る防護膜となっている。例えば誰かに罵詈雑言を浴びせられる、受け入れがたい異論を向けられる、といった場合、仮にそれがどんなに攻撃的な言葉であったとしても、言葉は言葉に過ぎない。ただの音である。だから「そういう考え方もあるのね」「汚い言葉を使って品位が知れますね」と受け流すことも、理屈上は可能だ。実際に可能であるかどうかは、第一弾での防御力に依る。受け流す前に貫通して大きな傷を負ってしまうこともある。こうしたダメージから身を守ってあげているのも「膜」だ。問題は、「膜」の強度に著しい差異があり、この文脈で言えば、ジェンダー相関的な側面がある、という所にある。これもまた繰り返しだが、こうした本質論は非常にリスクが高く、あくまで事態の一側面としての参考程度に留めなければいけない。仮に事実であっても、振りかざしてはいけない。ただ、「膜」の強度の高い側には、そもそも膜の存在自体が見えない、という大きな問題がある。そこに膜があるのだ、ということは知らないといけないし、暴かないといけない。心配しないでも、知ったところで膜は消えない。
 当然「膜も相対的・対称的な関係ではないか」、つまり「お互い様」との論もあろうが、残念ながら事態は非対称だ。本当のところ、ただ社会的に非対称であるだけでなく、生理的にも対称ではない。私見ではあるが、「膜」現象には内分泌的基礎がある。とはいえ、こうした本質論的基礎づけは、一歩間違えば優生学にも堕ちかねない危険物で、軽々に語る気はない。仮にこれが事実だとしても、武器として振りかざせば自らの足下を掘り崩す結果しか生まない。せいぜいのところ「暗黙の了解事」として共有され、双方の平和的理解に供する程度に留めるべきだろう。
 重ねて言うが、仮に「膜」に生理的根拠があったとしても、そこを梃子に極端な本質論を振りかざすのはフェミニズム的にもリベラル的にも正しくない。そこをギリギリで踏み留まることが、差し出さなければいけない誠意だ。誠実さには勇気が要るが、その勇気が状況を少しずつ進めていく。



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