「羽虫はランプが好き」と言うことはどういうことか

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 こんなTweetがありました。

 まぁ、ここでの焦点は感情移入するかしないか(すべきか、できるか)ということですが、よくよく考えれば人間にしたところで「好き」だのと簡単には言えません。
 シャブ中はシャブが好きなのか? アル中はアルコールが好きなのか? パチンコファンはパチンコが好きなのか?
 もっと言えば、あなたは本当に好きでその服を着ているのか? ただ周りの空気に流されているだけではないのか? 本当に白いご飯が好きなのか? 子どもの頃から食べ慣れているから好きだと思っているだけではないのか?
 などなど、いくらでも問うことができます。
 わたしたちの日常的な言葉の使い方は、「好き」と言ったらそれに対応する何らかの状態(心理、脳!)などがある、という想定の元にかわされていますから、その範囲で言えば別段ナイーヴに「好き」と言っておいて何ら問題があるわけではありません。しかし言葉というのはその外に何らかの対応物を持っていてそれを指示する、という素朴なものでないのは、言語哲学の基礎の基礎も学ばないでもわかりきったことですから、「好き」にしたところで、何らかの対応物によって証明される性質のものではありません。
 勿論極稀に、胸のところがぎゅーっとなって「これは、恋!?」みたいな好きというのもないわけではありませんが、それは「好き」という言葉がかわされる様々な状況のうちの一つが、たまたまそうした生理現象を引き起こす確率が高いものであった、というだけのお話です。「胸のぎゅーっ」が恋の必要条件になっている訳ではありません。
 では「好き」はどこにあるのかと言えば勿論、言葉の次元です。社会と愛の話をしようでも書きましたが、この頃は、意味が世界に貼り付いているようなパラノイア的世界観が驚くほど増殖していていて、下手をすると教育ある普通の人すら勘違いしている訳ですが、わたしたちの主体はあくまで言語の水準にある訳で、ある人が「好き」ということは、その人の内部にある何らかの対応物を指示している訳ではなく、「好き」という宣言なのです。「わたしはAを好きなものとしてわたしを宣言する」という行為を行っているわけです。
 勿論、実際は何かを好きという時に一々そんなことを考えている訳ではありませんが、そのように機能はしていて、そしてそういう前提で初めて、わたしたちは人が言う「好き」を受け止められるのです。
 ですから、本人が「好き」というなら、一旦はそれを素直に受け止める必要があります。「言わされてるだけじゃないか」「本当はどう思ってるんだ」などと邪推は可能なのですが、それらは一度括弧に入れて「好きか。そうか」とそのまま受け止めないといけません。なぜなら、「好き」というのは事実なり脳の状態なりと照応して「確かに好きである/好きではない」などと真偽判定する性質のものではなく、単に「好き!」という宣言だからです。本人がそう言っているのだから仕方がありません。
 と、ここまでがお約束です。
 こういうことを書くのは、お約束がなおざりにされる世の中になってきているからです。確かに約束は約束にすぎませんが、たかが約束、されど約束。わたしたちは言葉と約束の世界で生きているのですから、まず一度はこの約束を確認しあわないといけませんし、話が込み入りすぎた時も、一旦約束まで撤退してお互いに確認しあわないといけません。
 それを行った上で、「本当に好きなのか?」は初めて(適切な思考・発言として)成り立ちます。アル中が手を震わせながら「す、好きで飲んでるんじゃ!」と言ったところで、その好きは好きとして、「本人がああ言ってるんだから放っておきましょう」では済みません。自罰的な性格の人が面倒な仕事を何もかも引き受けて「いいの、好きでやってるんだから」と言ったところで、度が過ぎれば介入の必要も出てくるでしょう。
 ここから先は倫理の水準であって、逆に、上のお約束の足切りをクリアしていなければ、倫理の世界には足を踏み入れることもできません。
 この世界に入ってしまえば、簡単に答えが出るものでもなく、「好きでやってるんだから」という人に対して世話を焼くべきか否か、というのも、一律に決まった答えが導けるものではありません。状況や関係次第で、口を挟むべき時もそうでない時もあるでしょうし、介入した挙句ヤブヘビだった、ということだってあるでしょう。
 最終解答がないから倫理なのあり、何かを言うことで何かを犠牲にする、手を汚す、という必然性が現れるのもこの水準です。

 「カブトムシは樹液が好き」というのは、勿論ナイーヴな感情移入によって成り立っているもので、そう言うことでないがしろにされてしまっている側面というのがあるでしょう。「羽虫はランプが好き」という言明は、正にそこで曖昧にされているものを暴き立てているのです。
 しかしだからといって、「カブトムシは樹液が好き」という言い回しが許しがたいものであるかというと、そんなわけではなく、ある種の正確性や公平性を犠牲にして、なお「カブトムシは樹液が好き」という場合はあるでしょう。幼い子どもにものを教えたり、親しい間柄で他愛もない会話を交わすのに、「カブトムシは樹液が好き」が不適ということはありません。むしろこういう言い方をした方がうまく行くことがずっと多いでしょう。人はそうやって感情移入して思考するもので、そうしたある種の「錯誤」を身に着けていなければ、人間社会ではかえって真っ当に振る舞うことができません。
 更にもっと言えば、「羽虫はランプが好き」というのは、感情移入による擬人化表現の限界を曝け出してはいるのですが、それをわかってなお、「羽虫はランプが好き」と言うとすれば、そこにはどこか、政治・文学的な強度が立ち現れてきます。
 「羽虫はランプが好きなんだ、好きだから命をかけてでも突っ込むんだよ!!」という、どこからどう考えても間違って見える言い回しを、敢えて押し通すことで、そう言明する者は状況に参加し、自らを場に対して差し出すことになります。そういう言葉は、方向がどうであれ、強く美しいものです。
 本当に面白い言葉というのは、ここら辺りから先にだけあるのですが、だからといってその前を全部すっ飛ばして良いという訳でもなく、両方あってはじめて一つ、一つの言語なのでしょう。



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