「わかり得る」砂漠

 結局「わからない」ということが核心なのだ。

 まったく個人的なお話として、思春期の頃、「わかる」ということがわからなかった。つまり、了解するとはいかなることか、ということがずっと気になって考えていた。
 風が吹けば桶屋が儲かるではわからないけれど、間を説明すればわかる、というのであれば、了解とは項目間の距離が十分に密になり、そこから抽象化可能なロジックを見つけ出すことなのだろう。敷衍可能な法則を見つけるということは、単なる具象の群れの中に規則性を見つけ出すということで、頭が楽をできる、ということだ。手でコツコツ作業するのではなくマクロで一気に片付けるようなものである。
 そう考えれば、一応は「わかる」ということがわかったような気にもなるのだけれど、何かまだ、残りがある。
 それは多分、規則への抽象化という身体性と象徴言語の間にあるものだ。
 もう少し言えば、「わかり得る」という地平の開きがあって、はじめて成立する「わからない」がある。
 「わかり得る」というのは象徴言語の中にあるもので、個別的具象と規則の抽出といった水準とは別のものだ。たぶん、「わかり得る」という予感のような世界の捉え方は、人間だけが体験しているものだろう。
 「わかり得る」があって初めて「わからない」があるのだとしたら、「わからない」もまた象徴的なものだろう。ただこれは「わからない」をどう定義するかにもよる。ただ対象を個別的に見ている、という体験もまた「わからない」なら、これは一般的なもので、とりたてて言うべきこともない。ここで考えているのは、「わかり得る」世界の中に「わからない」ものがある、という風景だ。
 「わかり得る」とはまた、「全体」の想定でもある。あるいはまた、時の果ての想定でもある。そうした無辺の箱のようなものがあって、その中に「わかる」ものと「わからない」ものがある、という開きだ。
 そういう世界の中に突き抜けてしまった途端、「わからない」ということは不安になる。それはただ「わからない」のではなく、「わかり得る」が「わからない」という宙吊りにされた状態だ。
 だから、視界に入っていない時、「わかり得る」世界に対象をとらえていない時、この「わからない」不安はまだ起こらない。
 もっと言えば、視野の中央にとらえて意識的に「わからない」ことを知る時と、視野の周縁でほとんど気づかぬまま「わからない」ことが現れる時がある。前者は完全に象徴言語の網の目にとらえられていて、解決はできないものの、致命的ではない。後者は本当の深淵に連なっている。
 例えば、「死んだ後はどうなるのだろう」と子供が考える時、そのように考えていることを彼または彼女自身が知っていれば、子供の疑問ということで片付くだろう。正確に言えば、多くの人々がそのような語らいとして後にまとめあげ、遡及的に「視野の中央に出現した典型的な不可解事」として、物語の中に回収しことなきを得ているのだ。おそらくは、それ以前に視野の周縁に映る「わからなさ」があり、ただそれは早々に「わかる」ものたちで塗りつぶされている。

 たぶん、わたしたちは、自分たちで思っている以上に「わかり得る」宙吊り感に耐えられない。
 かつてわたしたちの世界は狭く、外には広大で曖昧な空間があったが、そうした空間を埋めるのに多くの言葉が必要ではなかった。「わかり得る」可能性がはじめからないのなら、そこは大雑把な言葉で塞いでおけば、それ以上思考が這いまわることがないからだ。本当に恐ろしいのは、「わからない」こと自体ではなく、「もしかするとわかるのではないか、それなのに今、依然としてわからない」ということだ。
 やがて世界はもっと密になり、見通しが良くなり、「わかる人はわかっている」ことが見えるようになった。これは恐ろしいことなので、わたしたちはみっちりと「わかる」ことをつなげた世界を作る。この都市の中では、辻褄が合う方が原則だ。町のなかにいる限り、「わかる」方が当たり前になる。
 でも本当のところ、町の外には依然として広大な無秩序が広がっていて、辻褄など合わないのが当たり前なのだ。
 かつて信仰は、この砂漠と町をつなぐものだったけれど、見通しの良さが信仰を蚕食していった。
 町は孤立し、わたしたちは「わかり得る」砂漠に怯えている。
 どんな方法を使っても、それに名前をつけて、「わかる」ものにしてしまおうとしている。
 本当はわからないのだ。
 わからないのが当たり前なのだ。
 「わかる」が電気の配線や水道管のように張り巡らされたその先で、砂漠をすべて潤そうなどというのがおこがましいのだ。
 そういうものが世界にはあって、世界の多くを覆っていて、しかしそれでもなお、今日今ここの生を安寧のうちに過ごし、書かれた日までそれを繰り返す、そうしたことを保証していたものを、多くの人は忘れすぎている。
 その代わりになりふりかまわずいかなる「偶像」でも振り回し、わからないものに名前をつけ、必死で穴を塞いでいるではないか。
 誰もそれほど強くはないのだから、怯えていることを認めても恥ではない。
 わたしは、わかり得るものの中のわからなさが、本当に恐ろしい。
 それで、わたしにはわからなくても、そうしたものを「わかる」者が少なくとも一人いると信じている。
 もちろん、依然としてわたしにはわからない。
 ただ、蓋をするために腕を振り回すのは沢山なのだ。



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