カミングアウト言語

 カミングアウト言語、とでも呼ぶべきものが渦巻いています。
 そういうわたし自身が大量にそうしたことを書いてしまっているし、ツイッターなどではほとんど気持ち悪い自分語りしかしていないのですが、日本語で素朴にものを書こうとすると、いつの間にかわたしたちはこうした語らいに巻き込まれてしまう傾向があるように思います。私小説的伝統というものが、ほとんど意識もできないレベルでわたしたちの肌身に染み込んでいて、それがインターネットの一般化と共にあらゆる場所で炸裂しています。
 このことは日本語以外で会話する機会を持つと割と前景化されて、何か憑き物が落ちたような、あれ、わたしは今まで何にこだわっていたのだろう、という気になるのですが、母語から解放される訳もなく、とりわけわたしは母語以外の言語は極めて拙いレベルでしかありませんから、そうそうこの穴から抜け出すことはできません。
 日本人は自分のことを語るのが苦手、とういったステロタイプがありますが、これはパブリックな場と文脈で語ることについてであって、私的なカミングアウトに関してはむしろ大得意なようにも見えます。得意と言っても、日常の話し言葉ではなく、そうした場面では割合に「おしゃべり」で場を濁せる人が多数派かと思うのですが(それは大変結構なこと)、筆をとって何かを書き出した途端、見えない重力のようなものに引っ張られて、ついつい告白してしまうところがあります。筆をとって書き出すということは、一人ということで、一人になると本当に一人、一人で見いだせるものが「わたし」しかいない、ということです。
 加えて、皆が皆こぞってカミングアウトをしているにも関わらず、多くの人に、それがカミングアウトである、という自覚がありません。ネットの匿名性が一層これを加速しています。
 何らかの表現が不快だからやめてもらいたい、目につかないようにして欲しい、といったいざこざがネットでは始終見られますが、その背景にもほとんど無意識化したカミングアウト言語という問題があるように思います。つまり皆、ただ自分の告白を語っていて、告白の世界に浸っているのに、いつのまにやらそこに相応しくない異物が現れる。私の世界に見苦しい虫のようなものが入ってくるので、激昂してはたきにかかる。そんな感情の動きがあるようにも見えます。少なくともわたし自身にはあります(と、これもまたカミングアウト)。
 なぜこんなことになってしまったのか、その原因を語るような大仰なことは到底わたしの仕事ではないのですが、先にも書いた通り、一人になって見つけられるものが「わたし」しかいない、ということでしょう。そこで「内面」が発見されること自体は近代的主体のお作法のようなものなので、そのこと自体におかしいところはないのですが、それしかない、というのが奇形的です。
 かつては正典というものがあり、書き言葉とは正典でした。四書五経でも何でも良いですが、テクストというのは揺るぎない範例というものがあって、何かを書くということは、常にその間違いのないテクストとの関係性の中にある行為だったでしょう。筆をとる、何かを書く、ということは、必ずしも純粋に一人になることではなかったのです。
 聖典を持つ所謂一神教文明の元では、勿論聖典こそが正典(カノン)です。書くこと、一人になることは、必然的に神と向き合うことです。神と向き合うことで、はじめて主体が発見されるのです(逆は必ずしも真ならず、書かなければ神と向き合えないということではありません)。
 しかしこの国に限って言えば、正典の文化と言語が徹底的に破壊され、民主主義とテクノロジだけが移植された結果、残骸としてかろうじて残された日本語の書き言葉では、もう「わたし」くらいしか語るものがなくなってしまったのではないでしょうか。そこで皆、「わたし」を語ります。告白します。カミングアウトします。「わたしは、実は‥‥」。
 彼らはあくまで「わたし」について語っているのですから、そこに「いや、違う」という人が現れれば、反感を抱くのは当然です。何せそれは「わたし」の話なのですから、当人以上に正しく知っている人などいない筈であり、「いや、お前は○○だ」と他所からいきなり土足で入ってこられたら、気持ちが乱れるのも尤もです。「わたしはこう思う」とI think thatを付けたところで同じことです。あらゆる言明はthat節の中を(I thinkを省略して)語ったものとも言える訳ですから、「思う」と付けようが付けまいがどこまでも「わたし」の世界でしかないのです。
 本当のところ、わたしのことを一番良くしっているのはわたし、というのは、ある種のフィクションに過ぎません。そんな訳がないのです。この約束事が無意味な訳ではなく、砂漠の如き近代世界を生き抜く上でのサバイバルというか、折衷案のようなものとして、「わたしがわたしを一番良く知っている」というのはあります。言わばテイの世界で、そういうことを言うべき時というのはありますし、近代社会というのは基本このお約束で出来ています(出来ている、ということになっている)。
 ですからこれはこれで大事なのですが、大事なことは一つではなく、わたしのことを一番良く知っているのはわたしではない、という次元があります。誰か、と言えば神様に決まっていて、むしろ、わたしのことをわたし以上に知っている御方にわたしたちは神を見出すのです。日本語で神と言ってしまうとそれは単に「すごい人」なので、この「わたし以上に知っている」がイマジネールな世の中的次元に落ち着いてしまうのですが、本当のところ、その世界そのもの、全体性それ自体、歴史の唯一性それ自体、という水準があって、ここまで抽象化してgodとなります。少なくともタウヒードとはそういうことの筈です。
 少なくとも人間風情にわたしが誰かを決めて頂く話ではありません。百歩譲って人々にそれが「受肉」しているとしても(そんな訳がないが)、人々は人+人+人‥‥ではありません。

 というようなことは、割と言い尽くされたことで、他者の不在とかなんとか、もう何十年も前から指摘されてはいるのですが、問題はこのカミングアウト言語というものがほとんど日本語とイコールなほどにまで浸透し、かつ大多数の日本語話者が無自覚である、加えてそうした無自覚な人々が、ネットの力を借りてあらゆる場所であらゆる問題について語れてしまう、ということでしょう。
 これに対するカウンターとして、公共性、ということが言われますが、多分それだけではダメなのでしょうね。なぜダメかと言えば、現代日本語文脈の中で言われる公共性とは、個の寄せ集めとしての全体、という次元しか考えられていないからです。むしろ公共性が先にあって私的領域がある、しかし約束事として「わたし」が立つ、という迂回路が血肉となって定着していないのです。二段重ねの上で公共性が言われる、そもそもが公共性が先にあるのだけど敢えて後先逆にして言ってみる、という経路が認識されていないのです。
 だからどうしろ、というのはわたしにはわかりません。
 ただ最近ぼんやりと考えているのは、キャラ文化のようなものは、ある種この袋小路を相対化しようとする適応なのかもしれません。「わたし」もまたキャラである、というペルソナ論的な視点というのは、根の部分を完膚なきまでに破壊されてしまったわたしたちの現状とは相性が良いのです。ただそれもまた、いかにも緊急避難というか、対処療法的な匂いがして、つまらないのですが。



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