檻の中の人と餌をあげようとする人

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 全くこのような(一応は)公の場所に書くお話ではないのですが、某S嬢とのトークについて考えていたらちょっと面白いかもしれないことを思いついたのでメモしておきます。
 先日某所でS嬢についての話題があがったところ、彼女について神秘的なイメージを抱いている人が結構いらっしゃることがわかったのですが、わたし個人はそういうイメージはありません。わたしの印象は、勝手に檻に入って、外から「出ておいて、外は気持ちいいよ」とか話しかけてるのに、シャーッとか怒って扉も開け放ってるのに出てこない人。その強いられてる感じが面白いなぁ、と思っている訳です。檻に入っている人自体は珍しくないのですが、彼女の檻はユニークというか、非常に言語的なので、興味をそそられるのです。アホやなぁ、面白いなぁ、とニヤニヤ眺めているのです。餌はあげません。自分の餌だけで精一杯なので。
 で、ここから一般的な話になるのですが、檻に入ってる人というのはそれなりにいて、そういう人を外から見ると、最初はやはり、「出ておいで」とかナイーヴなことを思うんですよ。「どうしてこんなジメジメしたところに篭ってるの? 広い世界が待ってるよ!」という。
 まず第一段階として、この呼びかけを誘発するか、という次元があります。檻に入っていても完全放置される人もいる、というかそちらの方が大多数です。檻に入っていて話しかけられる人、というのは、それだけ魅力的な動物ということで、ぶっちゃけ言えばもう転移が始まっている訳です。外の人は中の人が気になって呼びかけるのです。「救いたい」みたいな気持ちにさせるのでしょうね。
 これには他にも条件があって、外にいる人はまだ自分が安全だと思っているのです。安全だと思っていなければ、「出ておいで」などと呑気に言っていられません。これは勿論、とんでもない勘違いなのですが、後述することにします。
 で、「出ておいで」とか声を掛けるのですが、シャーッと吠えたり、うんちを掴んで投げてきたりするので、そうそう近づけません。でも外の人は既にもう中の人が気になって仕方ない状態ですから、吠えるのも愛情表現とか、妙な勘違いをするわけですね。外に出すのは厳しいにしても、かいがいしく餌を持っていったりします。
 大体の場合、ここら辺りで落ち着いて、そのうち外の人も飽きて餌をやるのもやめるのですが、勝負はここからで、本当に中の人のことを考えるなら、一体コイツは何が楽しくてこんなジメジメした場所に篭っているのだ、もしかすると深い理由があって、檻の中の方が正しいんじゃないか、自分の方が間違っているんじゃないか、と疑念を抱きます。抱くべきです。
 すると実は、外にいる人も、外にいるつもりで実はこっちこそが中じゃないのか、自分も檻の中にいて、ただ檻を家だと勘違いしているだけではないのか、と気づくわけです。気付いて欲しいですねぇ。
 当然ながら、ここまでたどり着く人は滅多にいません。大概、外からお気楽に「救いたい」とかのたまうのが関の山です。オリエンタリズムですね。クソです。(S嬢がブルトンをボロクソになじっていたのはそういう意味かと思いますが、違いますか?)
 言うまでもなく、檻とか家とかいうのは思い込みに過ぎないのですが、思い込みというのは物理の檻と同じかそれ以上に強力ですから、「幻想だ!」などと言ったところで物事一ミリも動きません。ですから、外の人が「自分もまた檻にいる」と気づいたとしても、それは中の人が入っている檻と同等ではありません。非対称です。中の人と外の人は、どこまでいっても交わることなくすれ違います。性関係は存在しない、というのはそういうことです。
 本当のところ、外の人が囚われている檻というのは、中の人に対して餌をやってしまう、その幻想そのものの中にあります。安全な場所を安全と意識すらしない、そのこと自体が既に檻なのですが、正にその幻想を成り立たせるが為に、外の人はそれに気づかない(気づけない)のです。ですからこの檻は囚われの檻でありながら、防壁でもあるのです。檻を檻と気づかないが故に成り立っている防壁。外の人は中の人と違って、檻がきちんと見られていなくて、逆に見えてしまうとその途端に無防備になります。なくなってはじめて、守られていたことに気づきます。こうなるともう、中の人と違って外の人は吹きさらしですから、中の人より余程か弱い状態になり、場合によっては死にます。ブルトンはブルトンで大変です。
 この幻想にはメリットもあって、餌をやる方はやっている限りにおいて自分の安全性を盲信していられますし、中の人は餌が貰えます。ですから、全く交わらないなりに、檻と餌を通じてある種の関係性は成り立ち得るのです。勿論、中の人は大概「シャーッ」とか言っているので、どの餌を貰うのかは天のみぞ知るです。外の人にはわからないし、中の人もわかっていません。エジプト人の謎はエジプト人にとっての謎です。
 「餌が貰えるんだからいいじゃないか」と言うのも全然違って、中の人から見れば餌は毒入りかもしれないし、静かで平和な檻の暮らしを邪魔するわけのわかんない奴が来る訳ですから、そうそう安心などできない訳です。それでも時々、ついうっかり餌を食べてしまうにしても、繰り返しますが、なぜその餌を食べてしまったのかは中の人自身にもよくわかりません。本当のことを言えば、外の人だってなぜそんな奴に餌をやっているのかわかっていないのでアイコなのですが、外の人は自分では主体的だと思っていることが多々あります。信仰心が足りないのでしょう。中の人でも無理して主体的に捉えようとすることがあります。これもある種の防壁というか、うんち投げるみたいなものです。主体はうんちに入って檻を越えて投げかわされます。うんちが主体です。
 外の人が理解すべきなのは、中の人の気持ちとかではなく、自分のことです。中の人のことなどわからないのだから、自分の心配をしなければいけません。中の人はとんでもない猛獣で、近寄るとパクリとやられてしまうかもしれないし、艦砲射撃が迫っているので檻の方が安全なのかもしれません(実際、迫っています)。そういう不安がないといけない。ただ先述の通り、外の人は外の人で囚われているので、なかなか自分の置かれた状況の危うさがわからないのですね。これもそういう風に育ってしまった不幸です。お母さんが優しかったのでしょう。
 と、特にオチはないですし、この体制で人類はそれなりの期間やってきたのでしょうから、これからも続くだけでしょう。個人的には中の人に感情移入しますので、後はポジショントークだけです。中の人からすれば、安全な場所から変なファンタジーを投げてきたり、一転して罵詈雑言とか石とか投げてくるのが問題なのですから、唯一の解は外の人の安全を脅かすことです。「シャーッ」くらいでは足りません。うんちに石とか詰めてガンガン投げないといけない。石の主体。
 しかしわたしは親切なので、外の人の安全についても考えると、幻想はあなたを別に守ってくれません。理解は諦めることです。理解できない不条理がそこにあり、むしろわからないのが当たり前、という諦念の元に、遠く眺めるしかありません。神と運命を信じなさい。信じられるものはそれだけです。神への愛だけがあなたを導きます。

 と、こういうことを書くと、色んな人に怒られるのですね。何を偉そうに、という。ほんとすいません。しかしここで怒りが呼び覚まされているという点において、既に転移関係は始まっている訳ですよね。勿論わたしとしては怒られるのは嬉しくないです。怒らないで欲しいです。怒っている人だって気分が悪いでしょう。誰が得しているのかと言えば、神様が得しているのだと思います。



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