矛盾があることと矛盾が気になることは違う

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 確か大澤真幸さんが、「マルクスやフロイトを巡る、半ば『神学的』議論の方が、時に豊穣な言説を生み出すのはなぜなのか」という問題を扱っていた記憶があります。「科学的社会主義」だの、アメリカに渡り自我心理学へと堕した「科学的」精神分析などに見るべきものがあるとは思えないの一方、始祖のテクストを辿り生み出される言説には、非常に豊かなものが含まれます。
 このブログで何度も批判している「リベラルイスラーム」「科学的イスラーム」の類が貧相なのも、同じ関係にあるでしょう。
 
 一方で、マルクス、フロイトというと、シューキョーが目の敵にするものの代表格です。もう一つダーウィンも加えましょう。マルクス、フロイト、ダーウィン。どれも「神学的」議論を生み出した巨人で、このうちダーウィンを除けば、はっきり言ってむしろその「科学的」ではない部分こそが噛んでも噛んでも味が染み出てくる喜びを人類に提供してくれた方々です。
 で、この人達は、割とナイーヴな宗教者に、ケチョンケチョンに言われていることがあり、しかもその議論はさほど筋道立っている訳ではなく、つまり言説の内容自体が問題なのではない、ということが明白です(しかし当人たちはあまり自覚していないことが多い)。
 先日も人格的に大変尊敬できるエジプト人ムスリマに、ダーウィン批判の相手をさせられてしまったのですが、彼女に至ってはダーウィンとフロイトの見分けが見分けがついていませんでした。
 断言しますが、彼女は決して「狂信的」信徒ではなく、かつ高い教育を受け、教養のある人物です。エジプトを訪れたことのある方の為に言っておけば、道に溢れる野獣のようなアホどもとは全く別人種です1
 ここから分かるのは、「ダーウィニズム対宗教」なる構図は、事実に照らした言説としての妥当性であるとか、反証可能性を明示できる限りでの言説の正当性であるとか、理性をもって考えられるか否かとか、そんなことが問題になっているのでは全然ない、ということです。「科学」側も「宗教」側も、当事者は無自覚なことがしばしばありますが、気づいていないのは本人だけです。ダーウィニズムへの反感を訴える人に対し「科学的」説得を試みたところで、まったく意味はありません。
 
 面白いのは、標的に挙げられているのが、ダーウィンだのフロイトだのといった、お決まりのメンバーだということです。
 これらが標的にされるのは、具体的に信仰内容と矛盾するように見える部分があるから、という、当人たちの信じる一見尤もらしい理由もありますが、その程度の矛盾なら、他の無数の「科学的」言説にも見つけられるはずです。
 おそらく、これらの巨人の、冒頭に述べた「科学的でないからこそ面白い」部分が、一部の宗教者に感じ取られて、親の敵のように叩かれているのでしょう。土俵は最初から「科学」の中になどないのです。むしろ外だから、延々と不毛な戦いが続けられる2
 矛盾があるから、相容れないから、争うわけではありません。矛盾なんて、この世の中に掃いて捨てるほどあります。そもそも世界は、人間理性にとってキレイに整理された形で創造されている訳ではありません3。重要なのは、矛盾しているかどうかではなく、矛盾が気になるかどうかです。
 そして矛盾が気になる時というのは、相反するとされる両者が、結構似ている場合に限られます。
 誤解を恐れずに言うなら、ある意味、シューキョーとダーウィン、あるいはフロイトやマルクスは、同じ土俵で戦える仲なのです。言うまでもなく、「本来の信仰」あるいは「本来のダーウィン」がそうだ、というのではありません。ただ、ある種の人々を良くも悪くも惹きつける点、つまり「気になる」部分(あるいは歪曲)において、これらには共通した何かがあるように見えます。
 それこそが「系が限局されていることによる豊かさ」のようなもの ((本当のことを言えば、別に系は限局されていないのですが、一見区切りがハッキリしているように見える))、ということですが、もう一つ、その系自体の中に「不可欠な矛盾」を含んでいる、というのがあるでしょう。これは長い話になるので簡単に言えませんが、冷静に考えるとそれ自体は単に矛盾に過ぎないのだけれど、系自体にとっては結節点のような働きをしていて、むしろその矛盾が矛盾らしからぬ振る舞いをしていることによって、系が成り立っている、そういうポイントということです。留め金みたいな部分です。
 
 例によってまとまりなくダラダラと書いてしまいましたが、わたし個人は別に「科学的」言説と信仰の間の矛盾に苦しんだりはしていません。「言われてみればそうやな」という部分はありますが、別に気にもならないし、躍起になって「古い地球説」だの頑張って辻褄を合わせようとしている人たちは何だかよくわかりません。信仰には信仰のロジックがあるし、マルクスにはマルクスのロジックがあり、真面目に関わろうとするなら(美味しくしゃぶろうとするなら)、一旦は対象のロジックに「巻き込まれて」しまわないといけませんし、その中で見ている分にはとりたてて「矛盾」が目障りになるとも思えません4。ただ、これは単にわたしがダメ信徒なせいかもしれないので、あまり自信はありません。
 個人的に、ダーウィンのことは全然知りませんが、マルクスとはちょっとだけすれ違い、フロイトやラカンには一頃大変にお世話になっていたのですが、わたしの中ではフロイト・ラカンは最初から良い意味で「神学」なので、イスラームと関わるようになった今でも、排斥すべき忌まわしき近代の尖兵というより、千年変わらず神学論争を楽しめる仲間のように感じています。
 例によってどっちの方面からも怒られそうなことを書いてしまいました。怒られる前に謝っておきます。ごめんなさい。深い考えなくぼんやり書いているだけなので、ムカついたらアイスとかやけ食いして寝て忘れて下さい。

  1. これについては彼女も言及していて「正直、わたしはエジプトが好きじゃない。女性が道を安心して歩くこともできない。品のない人が多すぎる」とこぼしていました []
  2. そしてこのプロレスは、それなりに面白い(笑) []
  3. おっと、こう言うともう「科学」の人に怒られるかしら? []
  4. どちらかというとイスラーム内での「宗派的」微妙な差異が気になりますが、これはつまり、系の中で美味しくしゃぶることを覚え始めているということだと都合よく解釈しておきます []



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