それはバッタである、アッラーではない

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 割りとよく言われることですが、日本語の「神」という言葉は、godやإلهに照応していません。godやإلهも広い意味を持つので、重なる部分はありますが、イスラーム(キリスト教やユダヤ教でも)における唯一神の概念を考えると、ここにおいて最も重要な要素が「神」という語には完全に欠落しているように思われます。
 godやإلهに「神」を訳語として充てることについては、伝統的に長い議論があります。日本語の「神」の語感は啓典宗教におけるそれとは大分異なり、要するに「ずば抜けた存在」的なものです。ネットスラングだと、単に何かに秀でた人が「神」と呼ばれることすらあります。これはもちろん俗語用法ですが、こうした用いられ方がするということは、「神」の根底的イメージとの間に通底するものがあるからです。
 考えれば考えるほど、日本語の文脈の中だと、唯一神的な概念が表現しにくいです。というより、本来どんな言語でも容易ではないのですが、一神教が伝統化している領域ではその難しさに「慣れて」いるのではないか、とも考えられます。
 一方でイスラームにおけるアッラーを「アッラー」とカタカナ表記してしまうことの弊害というのもあります。こう書いてしまうと、所謂「アッラーの神」的なイメージ、つまり「中東の方の変わった神様」的なイメージが生まれ、それこそアッラーとは似ても似つかない印象を与えてしまう場合があります。アラビア語における「アッラー」という語は、固有名詞であるものの、同時に普通名詞と連続的な印象が一目瞭然で、名前と同時に意味があり、言語に埋め込まれている印象があります。カタカナ表記「アッラー」からは、こうした(重要な)印象が一切払拭され、まったく正反対のイメージが出来上がってしまう弊害があります。
 極力日本語に埋め込まれた語を考えると、例えばキリスト教で用いられていた「天主」とか、「唯一者」「唯一神」「一者」などの言葉が浮かびますが、こなれてはいませんし、今度は「神」の要素が希薄になってしまう面もあります(このエントリでは試しに使ってみます)。

 わたし個人としては、「神様」という言葉自体は近づきやすく嫌いではないのですし、実を言えば訳語そのもののことを云々したい訳ではありません。
 唯一者の概念を理解する手がかりとして、一度「神」を全部捨ててみてはどうか、と考えただけです。唯一者というのは、アッラーのことですが、もちろんキリスト教やユダヤ教における神様(早くも使ってしまった!)も同じです(これはまったく当たり前のことなのですが、日本語文脈だと驚くほど理解されていない! これも「神」概念の弊害が一因だろう)。そもそもイスラームは「神なし、ただし唯一者を除いて」、もっと言ってしまえば「神なし、唯一者あり」が根本にあるわけですから1
 とりあえず一旦、神は全部ナシです。
 あれは全部偽物です。
 偽物というより、マンガです。この「あれはマンガだ」という日本語表現は、ここにピッタリ合います。つまり、そこにはイメージがある。世界内的な連続があり、一つの塊として掌握できる。
 それは単に、滑稽で無用なものなばかりでなく(それだけなら楽しめばいい)、害悪ですらありえます。別段、それこそマンガ的なイスラームのイメージで「偶像だから壊せ」とか言いたいのではありません。そういう人はいるし、実際壊しても良いと思いますが2、ここでの要旨ではありません。
 イスラームにおいて一番ダメなことと言えば、それはシルクです。他にもダメなことはあるでしょうが、唯一者概念の理解ということに絡めて言えば、シルクが第一に来るでしょう。
 シルクは、しばしば「多神崇拝」とか訳されてます。別に間違いではありませんが、違和感があります。多くの神を「崇拝」というところにポイントがあるのではない筈だからです。シルクという語の語幹的イメージで言えば、shareする、分かち合う、仲間、並び立つ、といったものが浮かびます。会社を意味するشركةも同語幹です。つまり並び立つものとか仲間とかが一緒にいる、という感じです。
 これを「アッラーに並び立つものを認めてはいかん」とだけ考えると、また危うい解釈になります。間違ってはいないと思うのですが、そう言ってしまうと、何だかケチンボで独占欲の強い神様が一人いて、「わし以外を拝むとは何事ぞ! きーっ!」とか言っているイメージになるからです。この発想は、それ自体がシルクで、もう全然反対方向に走っています。
 並び立ててはいけない、というのは、唯一者が本来は、原理的文法的に「並び立てる」ことが不可能な存在であるからです(少なくともわたしはシルクの問題をこう考えている)。「丸い四角」があり得ないような意味であり得ない、ということです。にも関わらず、油断していると、人間は「丸い四角」的な無茶なものをイメージ化して、あたかもそれが対象そのもの、ここでは唯一者そのものであるかのように考えてしまいます。こうしたイメージ化の当初の目的は、理解を助けることであったのかもしれませんが、その後一人歩きしてイメージが概念を乗っ取ってしまうのです。「マンガ化」された結果、描かれたキャラクターが対象そのものに成り代わるようなものです。
 「アッラー」とカタカナで書いてしまうと、それは「アッラーの神」的な中東の髭の生えたオッサン的イメージになって、そういう神様であれば、他にヒッラーとかホッラーとか、色んな神様がいることは容易にイメージ可能です。そうなってしまった後で「並び立ててはならない」と言えば、それは「アッラー」がケチンボで、ホッラーのことが嫌い、とかいったイメージになって当然です。これは全然、シルクの理解ではないし、むしろこの理解自体が始まりからしてシルクでしょう。
 並び立てることがいけないのは、「それ」が本来、「丸い四角」のような不可能だからです。並び立てるのがいけないのは、並び立ててイメージ出来てしまった時点で、既にそれは「それ」ではない、ということです。
 「そんなものは、何がなんだかサッパリ分からない」というなら、むしろそれが正しいです。そんなにすんなりイメージできないし、イメージできてはいけないのです。イメージ的理解の困難なものを、分からないままに受け止めるべきなのです。

 ですから、シルクの禁止と「神なし、唯一者あり」というのは表裏一体で、要するに「神」とか言われてるものは、全部が全部例外なくダメだということです。世の中にはそんな凄いものはないのです。不思議も奇跡も撫で牛も叶え杉もラッキーグッズもレメディーもないのです。常識で考えろということです。
 実際問題としては、世の中には「常識的に考えておかしい」ものがたくさんあります。それらが全部著しい害悪かというと、別にそうでもないでしょう。程度とユーモアの問題です。ユーモアがなくなったら、あるいはシャレが通じなくなったら、先日書いた言い方で言うなら「プロレス的」なものが分からなくなったら、それはただの害悪であり、排除すべきです。しかし、ユーモアのある間、プロレス的精神のある限りにおいては、ハラームとは言えない、とわたしは考えています。これは対象そのものというより、受け止める人の側の問題で、以前に音楽について考えたように、その人においてダメならそれはダメです。プロレス的余裕のない人においては、多くのものが害悪です。その人はやらない方がいい。でも、他の人にとっては問題ないかもしれません。
 ともあれ、ここで重要なのは、こうした山のようにあるマンガ的キャラクター群の是非ではありません。唯一者がそうしたキャラクター群の一人ではない、ということです。正確には「そういうイメージを抱いてしまっていたら、お前は既に理解を踏み外しているぞ、気をつけろ」というメッセージです。
 誰でもちょっとは道を踏み外すので、ちょっと外れて草むらでバッタを捕まえているくらいなら良いかと思いますが、バッタを追いかけて穴に落ちて帰ってこられなくなったら大変です。シルクというのは、バッタを追いかけて道を外れはじめると、GANTZのチャイムのようにピロリンピロリン鳴る警告音ではないかと、わたし個人は考えています。「それはバッタである、アッラーではない」。

 ではイメージを拒む唯一者とは何なのか、というのは長い長いお話で、色々な人が色々なことを言っています。でも一番重要なのは、そうした諸々の言説というより、「マンガ」を拒みながらなおかつ「それ」について思考する、ということが、誰にでも可能だということです。別に修行のような思考を言っているのではなく、「それ」は思考対象とすることが可能、想定可能、という意味です。
 例によって迷走しましたが、ここがスタート地点であって、「神」に振り回されていると、そもそもの入り口からして間違えているのではないのか、というのがわたしの考えです。当然ながら、この考えを「イスラームの考え」と言う気はありませんし、言いたくもありません。イスラームについての世の中的な知識が欲しいなら学者に尋ねれば良いし、イスラームについて知りたいなら主に尋ねれば良いでしょう。

  1. これが乱暴な言い方であるのは承知していますが、根本を理解するには一度こうしたラディカルな発想をすべきではなのかと考えています。少なくとも、わたしはこういう発想をしています。「イスラーム的」に正しいかどうかは知りません []
  2. 現実問題としては、現代においては、こうした対象を文字通り物理的に破壊することにはデメリットの方が大きいと思います。無用な衝突を生む、というのではなく、他の壊すべきものを忘れさせるからです []