「結局のところどうしたいのかだけを見る」「現象として大変なら大変なのだ」

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 どうでもいい個人的な心がけなのですが、異常に気が短く情緒不安定な人間として、最近二つのことを心がけています。以前よりは少しキレなくなった気もしなくもないです。
 その二つというのは、「結局のところどうしたいのかだけを見る」と「現象として大変なら大変なのだ」です。
 「結局のところどうしたいのかだけを見る」というのは、目の前の目的とか不満とかいったものに極力とらわれないようにし、「そんなこんなで最終的にどうしたいねん」という方だけを見るようにする、というものです。
 例えば旦那や彼氏がいつも生返事でイヤだ、とかいう不満があったとして、できればこの不満を解消したいとします。それが解消できれば結構なのですが、解消しようともがくうちに関係がこじれてしまう、というようなことが世の中には山ほどあります。
 この場合、「結局のところどうしたい」かと言えば、彼(あるいは彼女でも子供でもジジババでも)と仲良く平和にやっていきたい、ということです(そうでないならまた話は別)。だとしたら、この大局の目的だけを見て、目の前の問題が解決されたかどうかには、なるべく重きを置かない、解決したら「めっけもん」くらいに気楽に構えておく、ということです。
 往々にして、この手の不満や問題というのは、実際はその問題自体が重要なのではなく、自分の心や相手との関係の中にある何らかの問題が小さなことに引っかかって具現化しているものです。その問題自体は、冷静に考えると割りとどうでもいいのです。でも、そのどうでもいいことにすっかり絡め取られて、自縄自縛に陥ってしまうというのもよくある話で、これを避けるには、「要するに自分はどうしたいねん」「結局どういうオチだったら満足やねん」というのをまず確認して、その点さえクリアできれば、後のことは寝て忘れるくらいに思っておいた方が良いです。そうやって気楽に構えている方が、自然と解決することもままあります(しないこともある)。
 「現象として大変なら大変なのだ」というのも、この手の問題に絡んでいるのですが、同じ例えで言えば、「生返事ばかりでイヤ」な場合に「ちゃんと話を聞く」とか「共感を示す」というのは、そんなに大変なことには見えません。不満に思っている側にとっては、実に容易いことかもしれません。ですが、まず第一に、相手にとって簡単かどうかは別問題です。
 それから第二に、こっちの方が大切なのですが、相手にとってすら簡単だった場合でも、いざ実際に実現しようとしてみると、色々別の問題を引き連れてきたりしてうまくいかない、どちらにとっても簡単で造作も無いことなのに、指摘されると腹が立って喧嘩になる、なぜだか分からないけれどすんなりいかない、というようなことが、世の中に往々にしてあります。
 問題は、ことが「大変」ではなく「簡単」である(ように見える)ことです。仮に「引っかかって具現化した」問題が「家にフェラーリがなくて不満だ」とかいうものなら、普通に考えて簡単には実現できないのは誰にでも分かるでしょう。なまじ簡単そうに見えるから「なんでそんな簡単なことができないの! きーっ!」とかなるわけです。子供に対するお母さんも、よくこの状態に陥るかと思います。
 この場合、「簡単なはずなのに上手くいかない」の「はずなのに」は忘れることです。簡単そうに見えるその見た目のことは全部忘れて、実際問題として現象としてなかなかうまくいかないなら、それは(なぜだかは分からないけれど)大変なことなのだ、と考えた方が楽です。簡単そうに見えて、実は逆立ちでスキップするくらい難度が高いのです。
 簡単なはずのことがなぜ難しいのか、の「なぜ」のことは考えてはいけません。原因を見つけ出して取り除こう、などと思いあがったことを考えてはいけません。サタンが介入しているのでしょう。主に救いを求めなさい。
 なぜだか分かりませんが、とにかく難しいのです。
 そんなに難しいことなら、すぐに出来なくても諦めるしかありません。文句があるなら、自分で逆立ちでスキップしてみればいいのです。大変ですよコレは。下手したら転んで首の骨折ります。諦めた方がいいです。

 この二つのポイントは、どちらも要するに「諦める」ということなので、分析的思考を摩滅させ社会の進歩を停滞させるものかもしれませんが、分析的思考なんか出来ても何の役にも立たないし、社会が進歩しなくて上等なので、諦めたら良いでしょう。主がお望みであれば、そのうち勝手に解決します。
 以上、まったく個人的なライフハック(笑)でした。



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