『ヤコビアン・ビルディング』と関係性の信仰

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 「信じる」ということを、個人の水準だけで考えるのでは、片手落ちではないか。
 「信じる者は救われる」といった話とは別に、「信じている人が多いと救われる」ということはある。
 あまりこういう「無理に経験主義科学的文脈で解釈しなおす」ことはしたくないのだけれど、例えば、「キツネ憑き」のようなヒステリー症状が、「心霊的」な方法で治癒する、ということはあり得る話で、尚且つ、治療が効を奏するか否かが、患者個人の「信」だけではなく、周囲の人々、当該社会全体の「信」と相関しているのは、容易に想像がつくことだ。もちろん逆に、「キツネ憑き」が発生するかどうかも、個人以上の「信」に関係しているわけだが。
 
 『ヤコビアン・ビルディング』はなかなか憂鬱になる映画だ。現代エジプト社会の様々な問題、腐敗や背徳を抉り出した大作で、欧米での評価も高いのだけれど(実際映画としてかなり面白い)、気持ち的には正直見ていて暗くなる。
 映画そのものの評価とは別に、印象に残っているのが、サイーディー(上エジプト出身者、一般に頭が固くて一本気、というイメージがある)の若い男が背徳の男性に誘われ、酒を飲み同性愛関係を持ってしまった、翌日の場面だ。
 若い男性はいかにも信心深い田舎者らしく、自分の犯してしまった罪に怯え、「地獄に落ちる、地震が襲ってくる」と震える。
 その様子を見て、背徳の中年男性が、こういう内容のことを言う。
「我らが主はとてもとても寛大で慈悲深いんだ。こんなことは許して下さる」。
 この場面から、二つのことを考えた。
 
 一つは、中年男性が若い男性を宥める時に「バカ言うな、地震なんか起こるわけないだろう」とか「地獄なんてあるわけがない」などとは言わない、ということだ。
 この男性は信心の欠片もないような男なので、彼自身は多分まともに神を信じてはいまい。しかし、少なくとも信心深い人物に対して、それを口にしてしまう愚は避けている。
 これは単純に、「相手の文脈に合わせて語りかける」社会的スキルを発揮しているとも言えるが、同時に、「自らの信心に関わらず、絶対に越えてはならない一線だけは維持している」とも言える。こういう「大文字の他者への配慮」は非常に重要だ。
 信仰というと、すぐに個人の問題に還元されてしまいがちだし、実際そうした面はある。近代的国民国家の中で信仰の自由を確保しようとしたら、一旦ことを「個人」に落として、つまり「国民」に落として、そこから相手の文脈で説得する、というのも、有用で大切なことだ。
 だが、本当のことを言えば、信仰は個人の問題ではない。「みんな」の水準が非常に重要だ。「みんな」に対して気を使うことができれば、それは信心とは言えないものの、最低限の水位をクリアしたことにはなる、とすら思える。
 エジプトでは、この中年男性のような「ダメな人」に、数えきれないくらい会ったが、そうしたムスリムの風上にもおけないような人でも、丁度この映画の人物のような、ギリギリの配慮は出来ている。
 こういう人を「偽信者 ムナーフィキーン」と告発するのは容易いし、実際その通りだと思うが、逆説的にも、偽信者であることなしに、真の信者ということも有り得ない。なぜなら、「本当の信者」はアッラーにしか見分けることができないからだ。「自分は偽信者なのではないか」という懐疑と背中合わせでなければ、逆に真の信仰とは言えない。疑いの余地の一切ない確信とは、狂気であり狂信だ。
 だから、分水嶺になるのは行動の水準なのだ。礼拝のような「目に見える」行動実践が重要なのは、そのためであり、「大文字の他者への配慮」の行き届いた行動を取る、という、最低限の社会常識の実践も、極めて広い意味での信仰実践の一部と言えるのでは、と考える。
 念のためお断りしておくが、この中年男性のような振る舞いが「十分に正しい」という意味ではない。わたしなら、この中年男性は地獄に落ちると思う。しかし、わたしはアッラーではないので、本当に落ちるかどうかは知らない。そして、彼が最低限の配慮を見せている限りにおいて、その堕落を批判することはしないだろう。
 
 もう一つの気になった点が、冒頭の話と少しつながる。
 中年男性は「これくらいの罪を犯したからといって、地震なんか起こらない」と言う。最近、イランの宗教者か何かが「天変地異は背徳のせい」といった発言を行ったことが、ネット上で「お笑いネタ」とされていたが、こうした見方を滑稽だと考える視点も、現代日本に育った人間としてよくわかる。個人的には、現在定説となっている地震発生プロセスに疑義を唱えるつもりはないし1、とりわけHIVを道徳的腐敗と結びつけるような一部の宗教者の発言には危険なものを感じる。
 究極的な話になれば、この世界で起こっているすべての事象が経験主義的アプローチにより説明可能であったとしても、世界そのものの原因については、依然信仰の介入する余地はある。だから、このレベルでナイーブに両者が齟齬をきたすように考えても仕方ないのだが2、とりあえずここでは深く追求しないことにして、一旦「地震なんか起こるわけないやろ」という「常識」を認めた上で、一つとんでもないことを言ってみたい。
 この「背徳」一つを持って、神が地震を起こすことは、多分ない。なぜなら、他の多くの人々が、正しい信仰実践を行っているからだ。
 この発言は、頭がおかしいと思われて当然だし、わたしもそう思う。
 何が言いたいかと言えば、信仰というのは、個人だけのものではないし、信仰の目で見る世界というのも、一人のものではない、ということだ。
 米軍の精密兵器か何かが、このゲイのオッサンをピンポイントで爆撃するわけではない(笑)。天変地異が起これば、そこに住むすべての人々が巻き込まれる。それくらいの配慮を、アッラーがしないとは考えにくい(もちろん、しないかもしれないし、わたしにはわからない الله أعلم。この冗談のような視点を裏返すと、「信仰は個人だけのものではない」ということが理解しやすくなる。「信じる者は救われる」ならぬ「信じている人が多いと救われる」だ。
 こんなトンデモを言ったからといって、「みんなの信仰パワーが集まって小惑星を弾き返すんだっ!」などと考えているわけではない。しかし、そういうカルトにありがちな発想というのは、全然根も葉もないものではなく、関係性における信仰、「みんな」における信仰、という、信仰の重要な一面を期せずして示しているのではないか、と思う3。重要なのは、個人が集まることで、個人の集合以上のものになる、ということだ。これは別に、信仰に限った話ではないが、信仰については特に留意すべきものがある。その「みんな」には、信心深い人もそうでない人も含まれていて、「みんな」が入り込むことで、信仰は、狭い意味での「信仰を持った人」の集まりの外と連絡するからだ。信仰者と、(様々なレベルの)不信仰者は、その全体が合わせて一つだ。誤解を恐れずに言うなら、不信仰者も含めた語らいが、信仰なのだ。
 とりあえず、信仰者たちは、他人の行いを見て「地獄に落ちるぞ」などと考えるよりは、その人の分まで頑張って礼拝して、せいぜい地震が来ないように盾になるつもりでいる方が、色々な意味で健全な気もする(笑)。
 
 余談ながら、冗談めいた比喩として使った「精密兵器」というモチーフは、それ以上の意味を持っているのでは、と、今気づいた。
 スマート兵器とは、「無辜の市民を巻き添えにしない」という名目の元に開発されているものだろうし、少なくとも、そのように主張されている。「悪いのは指導者、テロリスト、独裁者」「民間人を巻き込むべきではない(逆に言えば軍人ならどんどん殺して構わない)」ということだ。
 米軍当事者やその関係者が、どこまで本気なのか知らないが、中には本気でこう信じている人もいるだろう。さらに、それを眺めている米同盟国ののん気な市民となると、「本気で信じている」率がグッとあがるのが想像に難くない。
 「市民を巻き込まない」という発想に、一定の倫理性を認めないわけではないし、それはそれで結構なことだと思う。しかし、100%本気でこれを信じているなら、茶番という他はない。
 世の中には確かに、独裁的で酷い人物というのが存在する。しかし、悪というのは、個人のレベルでだけ考えられるものではない。「悪」と「それ以外」を、人間個体のレベルでキレイに引き剥がし、腫瘍を切除するように取り除ける、というのは、かなり限られた場面でしか有効ではない発想だろう。
 何のために腫瘍を切除するのかと言えば、もちろん、残った「本体」の生命を維持するためだ。「悪」を切除するというのは、つまり「悪いのはアイツだ、だから『みんな』は悪くない」ということだ。
 だが、もしかすると、「みんな」が悪いのかもしれないのだ。「みんな」に問題があるのに、無理に悪者を探そうとすると、切除ゲームはどんどん倒錯的な袋小路に入り込んでくる。アルコール依存症から肝硬変を発病した人に対し、禁酒させないまま肝臓を切り取っても丸ごと死ぬだけだ。
 スマート兵器という思想には、どこかこうした倒錯的ゲームの空気がある。そこまで頑張らないと「悪者」を切り取れない時、「悪」は本当にそこにあるのか。銃を手にした者は、後ろを振り返らなければならない。

  1. もちろん、これが経験主義科学の成果である以上、現在の仮説には覆される可能性が常にあるが、そんなことはマトモな科学者なら誰でもわかっている筈のことで、確定事項のように盲信しているのは大衆だけだ []
  2. とはいえ、「分業」するから矛盾はない、という見方も片手落ち。詳しくは「科学的イスラーム」の問題と理神論参照 []
  3. しかし、それをマンガ的な方法でしか表現できないカルトは、やはり所詮カルトで、唾棄すべき迷妄にすぎない []