誰にも迷惑のかからないものがなぜ悪いのか

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 非常に子供っぽい話ですが、「誰にも迷惑のかからないものが何故悪いのか」という人がいます。
 世の中には、一見誰にも迷惑がかからなそうなのに、何故か「良くない」とされていることがあります。もし「悪さ」の基準を広い意味での他人との関係におくなら、誰にも迷惑のかからないことは、少なくとも「悪い」ことではないように見えます。
 こういう問いかけは結構大人たちを困らせるもので、まぁ「悪いもんは悪いんや!」と頭ごなしに言っておけば良いのですが、真摯な人だとマトモに向きあってしまって苦しむことになります。確かに「誰にも迷惑がかからないのならいいじゃないか」というのには、一理あるからです。
 この手の発想は、現代日本では至るところに蔓延しています。ある人達はこれが「道徳」の欠如によるもので、嘆かわしいことだと言うかもしれませんが、ただ理不尽な「道徳」を振りかざされるだけでは、釈然としないのも理です。問題の根は、結局のところ人間主義にすべてを回収しようとしている、ということです。人間が大事。それは結構。問題は、そこで人間とされるものが何者なのか、よく分からない、ということです。よく分からないならまだ大丈夫ですが、分かってしまったと思ったら非常に危ない。分かってしまった途端、そこで「人間」にされなかったものは、人ならぬものへと放逐されてしまいます。
 「誰にも」というところに、本当はすごく危ういものがあるのに、ナイーヴな人間主義(ヒューマニズム)にどっぷり漬かっていると、この辺の感覚が麻痺してきます。
 誰だか分からないものを、なぜ「誰にも」と言えるのでしょう。わたしたちは、「迷惑するかもしれない誰か」のことを、まだ知らないのです。誰だか分からないものが迷惑するかどうか、どうしてわたしたちに分かるでしょうか。
 人間主義的な「誰にも迷惑かからないなら・・」は、暗黙的に「誰か」の枠を決めるものです。現代思想くさい言い方をすれば、〈他者〉がいない。そこに「他人」はいますが、それらはすべて、「わたしたち」の枠から想定された、鏡の中小文字のaにすぎないのです。
 「誰にも」と言うなら、わたしたちは、「想像を越える」他者を想定しなければならない。そして実際、想定しなければなりません。
 なぜなら、わたしたち自身が、大文字の<他者>、Aの語らいの中で産み落とされているからです。
 言い換えるなら、わたしたちはある種の不条理によってこの世界に参与させられている限りにおいて、理不尽なものを想定しなければならない。
 これはつまり、「計算できないものを計算しておけ」というようなもので、かなり無茶苦茶な話です。計算できないものがどのくらいの程度で計算できないのかも計算できていないのですから、「ここは想定外用のバッファ」と隅っこを開けておくだけでも十分ではありません。
 幸か不幸か、「理不尽なるもの」に対する振る舞いは、多くの社会で掟のように受け継がれてはいます。しかし、人間的合理を基準とするヒューマニズムを大黒柱にしてしまった途端、この掟はただの理不尽な年寄りの戯言に堕してしまいます。そんな戯言を押しつけられれば、納得する方がどうかしているのであって、理不尽は文字通りただの理不尽になってしまいます。
 重要なのは、この理不尽が、〈わたし〉の理不尽さと通底している、ということです。わたしがこの世に存在する理不尽さと、「計算できないものを計算しとけ」という倫理は、一つのものだ、ということです。これを感じ、示すことができないなら、理不尽さはただの不合理となり、廃絶され、そのうち手痛いしっぺ返しを食らうことになるし、実際日々食らっているのでしょう。
 世の中には「誰にも迷惑がかからない(ように見える)」のに、「悪い」ことがあります。それが何故「悪い」のか、わたしは知りません。なぜなら、それを「悪」とするのは、わたしをこの世に引っ張り出したのと同じ理不尽さだからです。わたしの存在が不条理であるように、ある種の事柄は、わたしとわたしに似たものすべてが存在する以前に「悪い」のです。誰かが「迷惑」しているのでしょう。言うなれば、死者たちの語らいが。
 わたしやわたしに似たものだけが「人間」で、その「人間」の集まりが正邪を決するなら、きっと〈わたし〉はいなかったことでしょう。
 الله أكبر