グローバル化とイスラム―エジプトの「俗人」説教師たち― (世界思想ゼミナール) 八木 久美子 世界思想社 2011-09-22 |
しばらく前に読んでいたのに、何も書いていませんでした。
書くことがないのではなく、全体が余りにも面白く、抜き出してネタにするポイントが見つけられなかったからです。
テーマは、当サイトでも何度か話題にしているアムル・ハーリドやムイッズ・マスウードなどの「俗人」説教師。これをグローバル化との関係から解きほぐすものですが、テーマ的に面白すぎて、まるで「アタリ」の小説を読んでいる時のように「このまま終わってくれるな」と思いつつ一気に読んでしまいました。
イスラームには「聖職者」という概念がなく、どんなに「エライ人」でも免罪符を発行したり告解を聞き入れたり、といった権威はありません。しかしよく知られているように、ウラマーと呼ばれる学識者層、「宗教の専門家」は存在します。
しかしこのウラマーというのが一体何者なのか、というのは一筋縄にはいかない問題です。
ウラマーとは誰のことを指し、誰のことを刺さないのか。この語を正確に定義することは、実はほとんど不可能に近い。まず仏教の僧侶やキリスト教の司祭と異なり、ウラマーを聖職者という概念で捉えることには多くの問題がある。ひとつには、ウラマーは聖職者ということばから連想されるような、特別な力を持つと認められ、その意味で一般の信徒と明確に区別されるような存在ではない。たとえばウラマーは人々の罪を許すこともできなければ、逆に「破門」することもできない。
(・・・)ある人物がウラマーでであるか否かを一律に判断する基準は存在せず、ウラマーとそうでない人を峻別するようなはっきりとした境界線などありえないということである。
それでも、ウラマーがまったく曖昧模糊とした存在なのかというと、そうではなく、一定の共通イメージがあり、不明確ながらも満たすべき条件というものがあります。
原則論で言えば、ある人物がウラマーであると認められる基準は、その人がムスリムとして知るべきことを、一般のムスリムと比べてより多くより正確に知っているという点に尽きる。普通の人とは異なる特別な教育を受けた人というウラマー像は、伝統的なタイプの教育とは別の西洋起源の近代的な教育というものが導入され、それが一般化するなかで初めて生まれた、その意味で近代以降に登場した歴史の浅いものなのである。(強調は引用者による)
この逆説的にも見える「歴史の浅さ」は重要です。ウラマーは「知るもの」を意味するアーリムの複数形ですが、知っている人なら何でもアーリムですし、例えば理科系分野の学者でもアーリム/ウラマーです。要するに、本来は「物識り」たることが即ちウラマーだったのですが、イスラームとは関係ない西洋近代教育が導入されて以降、「いわゆるウラマー」「近代科学のウラマー」が登場し、その結果、「イスラームの専門家としてのウラマーなるもの」が析出された、ということです。
社会におけるウラマーの居場所、その役割は近代以降着実に限定されていった。社会における唯一無二の知識人という独占的な立場は二度と取り戻せないだろう。しかしながら、イスラム諸学の専門家として、「宗教」というひとつの領域に特化しさらにそうした地位を梃子に国家権力と強い関係を確保したことで、ウラマーは存在意義を失うどころか、形を変えつつも影響力を維持、拡大しているとすら考えられる。ウラマーだからこそできること、ウラマーだけができる事柄といったものが少しずつ一般信徒の行為や実践と区別され切り分けられていく。こうした変化を一面では、ウラマーの「聖職者」化と見ることができるだろう。
こうしたウラマーに対して、民衆は距離感や分かりにくさを感じているのですが、だからといって時代遅れの無用の存在とみなされているわけではありません。やや浮世離れした感はあるものの、わたしの直接知る範囲でも、敬愛を受け、尊重はされています。
この距離感を背景に、本書主題である「俗人」説教師たちがニッチを埋めるべく台頭してくるのですが、彼らが伝統的ウラマーに対するアンチなのかというと、そうではありません。本書中でも述べられている通り、「俗人」説教師たちはそれぞれの仕方でウラマーを尊重し、彼らの領分を侵さないように注意を払っています。この辺に、伝統的ウラマーと俗人説教師の微妙なバランスがあります。
本書ではその俗人説教師の走りとしてのハサン・バンナー(あまり俗人というイメージがないのですが)、ムスタファー・マフムード、そして現代におけるアムル・ハーリド、ムイッズ・マスウード、などが取り上げられています。
現代エジプトのイスラーム事情に興味があるなら、買って絶対損はないです。というか、読まないと損します。
ちなみに、故ムスタファー・マフムードは、エジプト人なら知らない人はいない(アラブ人全体でも多分ほとんどの人が知っている)超有名人で、大変な影響力のあった人ですが、個人的にはあまり好きではありません。
この人は幼少時に非常に宗教的な教育を受けるのですが、一度無神論者となります。そのきっかけとなるエピソードとして、マドラサの先生が「虫を寄せ付けない」と書いてくれた書の上をゴキブリが這っているのを見た、という話を聞いたことがあります。
その後医学部を卒業、医師として活躍する一方で文筆活動を行なっているのですが、最終的に回心し、イスラームへと回帰します。
それは結構なのですが、彼がしばしば使うのが「イスラームは科学的」「クルアーンのこのアーヤは現代科学のこの発見を予言している」系の言説なのです。
わたしは親しくしていた友人からしきりにムスタファー・マフムードを薦められ、彼女の好意ゆえに否定的な言葉も口に出来ず、笑顔で答えながら内心かなり複雑でした。
ムスタファー・マフムードの思想を深く学んだ訳ではまったくないので、他の面もあるかと思うのですが、こうした言説がオーソリティを帯びている状況というのは、ある意味象徴的です。
というのも、丁度近代教育の導入がウラマーをウラマーとして分離したように、「イスラームは科学的」系の言説も、「イスラームならざるもの」として導入されたものによる分断の結果だからです。ウラマーが本来単に「物識り」であるように、イスラームそのものの内奥で咀嚼して取り込めばよかったものを、表層的な接木が行われた結果、グロテスクなカルト的言説が紡ぎだされたのでしょう。「イスラームは科学的」と言う前に、「科学はイスラーム的」と言える何かをイスラームの内部に再発見できなければいけなかった筈です。
まぁ、今更そんなことを言ってもどうにもなりませんし、幸いムイッズ・マスウードのような若手の中にはちゃんと「イスラームは科学的」系言説を批判してくれる人もいることですから、徐々に良い方向に向かっていく、と期待したいところです。
関連:
『アラブ・イスラム世界における他者像の変遷』八木久美子
『マフフーズ・文学・イスラム―エジプト知性の閃き』八木久美子
『原理主義の終焉か―ポスト・イスラーム主義論』私市正年
証拠と確信