自宅の中で近所の建物のことを話す時、わたしはいつも見当違いの方向を指さしているという。
「西友は南にあるのに、西友って言いながら西の方を指しているから、いつも頭が混乱する」。
そう言われてみればそんな気もして、確かに方向で考えると、全然関係ないところを、しかも異様に自信に満ちて指さしているかもしれない。
でもそういう時、わたしは大抵西の方を指さしていて、なぜなら、ウチは西側にしか窓がないからだ。
西友が南にあっても、南には壁しかないので、そこを指さしても、西友があるなんてとても思えない。壁で跳ね返って、中のまんまじゃないかと思う。
西友は外にあって、外は窓の外だから、窓のある西を指さしているのだと思う。
だから見当違いじゃない。ちゃんと外を指さしている。西友は外だから、これで正しい。
昔の人が空の上の方に神様がいるように話していても、それは成層圏あたりに浮かんでいるとか、オリオン座のへんにいるとか、そういう意味では全然ない。
だからといって、「神は不可視にして至高」とかいう抽象的なところに一足飛びに行ってしまうのではなく、空を指差して神様の話をするには、それはそれで理があったのだと思うし、今でも多分ある。
その筋道は、西友が外にあるから窓を指差すのと同じくらい、あっけなく身近なもので、象徴的意味などと理屈をつけて納得しようとしたら、途端に指の間から零れ落ちて、意味がわからなくなってしまうものだ。
そんな文化人類学者のようなやり方では、とても神様に追いつけない。
神様を見つけられない人は、遠くを探しすぎている。
手の届かないようなお空を指してお話していたのだから、もっと近くを探さなくちゃダメだ。