サヨクはイスラームの味方なのか

シェアする

 ガラにもなくイスラエルのガザ支援船攻撃に対する抗議行動に顔を出してきたのですが、イスラーム関係の呼びかけだったせいか、ほとんどは非日本人ムスリム、少し日本人の市民運動系の人がいて、日本人ムスリムはほとんどいませんでした。わたし一人だったかもしれません。
 といっても、この活動自体について何か言いたいわけでもなく、ただそこに居合わせた「反戦平和」系の人々を眺めていて、ふと思い出したことがあっただけです。
 それは「ムスリムはサヨクを味方だと思っているのだろうか?」ということです。
 パレスチナやイラク、アフガニスタン繋がりだと、反戦平和系の市民運動家と多くのムスリムではある程度方向性に一致が見られるので、「共闘」するのは大いに結構だとは思います。また日本や欧米ではムスリムは少数派であり、多くが外国人で、ここから外国人労働者や南北経済格差などの問題に連なっていくため、「サヨク」がイスラーム寄りに見える、ということはあるかもしれません。アラビア語メディアでも、欧米の「リベラル」というのは、肯定的に語られている場合が多いように見受けられます。
 繰り返しますが、個別問題で共通する目標があるなら、是々非々で対応するのは多いに結構だと考えています。また人が思想に還元できるわけもなく、結局は個々人の問題であることは言うまでもありません。ただわたしは、イスラームは「サヨク」とは根本で相容れないものだと考えていて、この点を誤解して信仰をサヨクの味方してくれる「文化」に落としこんで理解しているなら、これはムスリムにとって損失であろう、と考えています。
 
 些細なことから始めれば、反戦平和系の活動の方の中には、イスラームに対して批判的な方も少なくありません。これはイスラームの幾つかの特徴、あるいはムスリムが多数派の地域で「イスラーム的なもの」との信念の元に行われている「人権蹂躙」を批判してのものでしょう(だから、サヨクの側について言えば、イスラームを仲間だと思ってしまうのでは、というのは良くも悪くも杞憂と言える)。
 こうした現象にも幾らかの分類が可能で、一つには全然イスラーム的ではない(悪しき)慣習が、教育のないムスリムによってイスラームと誤認されている、という状況が事実としてあります。これを見て、非ムスリムの方々が「あれがイスラームで、ひどいことをしている」と見てしまうのは誤解なわけですが、一方で誤ったムスリムの認識を正せていない責任はわたしたちムスリムにこそあるわけで、一周回って批判されるのもやむを得ない一面はあるでしょう。
 これとは別に、誤解ではない「ちゃんとした」イスラームに対して、それでもなお近代的人権概念から批判が加えられることもあり、これはもう少し奥の深い話です。こういう批判を加えられた時に「イスラームは人権を尊重している!それどころか西洋より古い時代から人権概念を確立している」といった論駁をしてしまうのはむしろ釈迦の掌、思う壺であって、一回全部呑んでしまって「その通り、イスラームには人権などという眉唾な概念はない!」と言い返せば良いのです。
 なぜなら、そもそも人権なる概念自体が、特殊西洋近代的な構想物にすぎないからです。イスラーム、とりわけ「現代のイスラーム」に批判されるべき点があるとしたら、それはイスラームのロジックによって行われるべきで、まるで関係ないコンテクストを援用される謂れもなければ、そんなものに乗って反論するのも愚かです。ボクサーに挑発されたレスラーが打撃に付き合うようなもので、勝負するならレスリングの文脈にこそ引き釣り込む工夫をしなければ話になりません(勝負すべきかどうか、というのは勿論別問題としてありますが)。
 
 以上は割と些末事で、本当に言いたいのはここからです。
 そもそも、「サヨク」と敢えてカタカナで書いた「そのもの」が、要するに一体何なのか、というのが、大問題です。言うまでもなく、資本主義やグローバリズムに対する態度をもって、左翼右翼を語ることはできません。資本家の横暴になんて、左翼でも右翼でも怒っています(それが分かっていないのは自称右翼のネトウヨくらいです)。日本の極左と極右では、天皇制以外ではかなりの点で意見が一致する、というのはよく聞く話です。
 では何をもって対称軸とするのか、という問いに見事な回答を与えよう、という気も能力もないのですが、一つの有用なフレームとして、宮台真司氏があげていらした「主意主義/主知主義」という視点があります。

「思想塾」開講!! – MIYADAI.com Blog

 わたしは氏の思想を丁寧に追っているわけでも何でもないので、もしかすると誤解に基づく援用かもしれませんが、左翼・右翼の本性を主知主義と主意主義として捉えてみる、というのは、いささか操作的ではありますが、力強い見方です。
 翻って、信仰について考えてみれば、これはあくまで主意主義的でなければなりません。つまり理神論の問題などと繋がるわけですが、理性により完全に回収できるものであれば、それは信仰とは呼べません。アシュアリーではありませんが、理神論を突き詰めて、その最果てて荒々しい不条理がかえってくるものが信仰なのです。
 念のためですが、主意主義的な立場が理性を一切用いない、という意味ではありません。それではただのクルクルパーです。最後の決断を迫られる状況で、何を優先するか、ということであり、また、理性の用いられる地平に、理性の及ばざるものの限界が初めからかぶせられている、ということです。
 余談ですが、この「限界ある枠組みの中で煮詰められる思想活動」という意味で、マルクス主義や精神分析が「あんなものは科学ではない、信仰だ」と批判されることがあります。これについても、本当は丸ごと呑んでしまうのが一番で、まったくその通り、科学なんかではないのです。そして、正にこの限界が定められている中でああでもないこうでもないと繰り返すことから、豊穣で時に狂気と紙一重のような分裂的煌きが生まれるのです(ラカンのような)。これは確か、大澤真幸さんが指摘されていたことです。
 さて、このように本性において主意主義的である信仰が、主知主義的「サヨク」と根本で一致できるかと言えば、それは全然できません。尤も、日本の伝統左翼には、サヨクとは名ばかりの浪花節兄ちゃんの成れの果てのような人々もいるので、これも一周回って意外と近いところにいるのかもしれませんが(近いなら近いで同族嫌悪的に互いの信条を叩き合う修羅場に陥る展開もありますが)。
 
 ネーションの偶像を叩く、という意味で、ある種のサヨクとある種のイスラーム(敢えて「イスラーム主義」と言ってしまうべきか)には、共通の敵があるとは言えます。
 しかし、ネーションを越えた向こうに夢想されるものは、イスラームにおいては、コスモポリタニズムであってはならない筈です。そんな脳天気な夢は見られないし、そもそもコスモポリタニズムという思想自体が、近代の枠組みの中で夢想されたものに過ぎません。
 理性に基づいた、透明で自由な世界、などを目指しているなら、それはイスラームではないはずです。信仰はそんな小綺麗なものではない。
 デカルトがbon sonsという言葉で想定した、「手続きを辿っていけば誰もが等しくたどり着ける」はずのもの、そうした理性(良識)などというものは、それこそある一つの文化的バイアスの中で想定された「考え方」に過ぎないでしょう。ネーションの向こうで、わたしたちが出会うのは、「良識の通用しない」圧倒的な他者なのです。だから、正にこのどうしようもない他者との向き合い方を考えなければ、近代の幻想と戦うも何もありません。
 ここでイスラームにアドバンテージがあるとすれば、それは本質的に主意主義的だ、ということではないでしょうか。理性は最後の拠り所ではない。そんなものが通用しないのは、まったく想定内なのです。だから、仮にカリフ制を復活させ、更にイスラームにとって好ましい世界がかなりのレベルで実現できたとしても、そこにあるのは「水平な」世界ではありません。ズィンミーに対する「差別」なるものも、当然あってしかるべきです。それを「差別」と呼ぶ「水平」を支える「人間」という概念が、既に敵のルールの中で勝手に決められているのです。水平な「人間」などない。あるとすれば、それはムスリムと、ムスリムではない者であり、ムスリムの支配する世界と、そうではない世界でしょう(現実にはこうキッパリ二分割できるものではないでしょうが、理念上でもこの壁が残る、という意味)。
 
 もちろん、ある一定の枠の内部であれば、多いに理性を信じる議論を重ねて良いはずです。そうした制約の中でこそ、豊穣な学術的・文化的成果というのはあげられるものです。
 難点があるとしたら、この内部で「理性的」と考えられている議論が、一歩外に出れば全然理性的とは見られない、ということを、忘れてしまう、という点です。こうした議論は、イスラームの内部でしばしば見受けられるものです。とりわけ、最果ての極東の地に生まれ、近代的思想的枠組みに洗脳されまくった末になんとか信徒をやっている人間から見ると、少なからぬ「ムスリムが多数派の世界に住むムスリムの議論」が、理性という言葉を振り回す割に、ものすごい独断とバイアスに振り回されているようにしか見えない、ということがよくあります。別段こうした議論の仕方自体は結構で、前述の通り寧ろ好ましくすらあるのですが、その刀で枠の外まで両断できるかと言ったら、それは甘いという他がない。そこから先は彼らの「理性」など通用しない、他者の領域なのだ、と心得てかかるべきです。だから軽々な「宗教間対話」「文化交流」など、何も生み出しはしない。
 
 ただ、信仰を最後に支えているのが、超-理性的なものであり、一つの不条理である、ということは、他者の世界へ踏み出し、かつそこでの「緩い帝国」を構想する時、一つの武器にはなります。そして、この不条理性をよりよく認識できる「少数派ムスリム」として生きるわたしたちは、皮肉にも多くのボーンムスリムより、「有利」な立場にいる、と言えるかもしれません。الحمد اللهわたしたち(ムスリムが少数派の国に住むムスリム)は、わたしたちの考えるささやかな理性の積み重ねでイスラームを外部に語れる、などということが幻想に過ぎないことを、真面目な議論の一度でも経験していれば、必ず思い知っているはずだからです。理性と呼んでいる「何か」自体が、既に決定的にすれ違っている。
 
 大分寄り道に逸れましたが、「サヨク」の人たちが「少数派の可哀想なわたしたち」に味方してくれるように見えたとしても、根本では相容れないものなのだ、ということを、ムスリムは肝に命じておいた方が良いのではないか、とわたしは感じています。大体、「可哀想なわたしたち」の味方とツルんでいる者は、いつまで経っても「可哀想」なままです。どうせなら、わたしたちが「可哀想」では困る人々とこそ、ぶつかっていくべきです。
 
 余談ついでにもう一つ言えば、少なくともわたしは「絶対平和」主義などではないですし、戦争が絶対悪だとも思っていません。そしてイスラームの歴史を紐とけば、戦争そのものが根本的な悪とされているわけではない、あるいは殺人がハラームであっても、特定の条件でこれは解除されうる、ということは自明です。
 平和がより良いに決まっているし、人殺しだって原則ハラームなのは当然ですが、それは第一の原理ではない。
 もちろん、「パレスチナ人虐殺は犯罪だが、シオニストを殺せば英雄だ!」と日本で叫んでは誰も味方してくれませんので(笑)、そんな物言いをしろ、と言いたいわけではありませんが、戦争=絶対悪、という見方を第一原理にしている人々とは、根本のところでは相容れないと考えるべきではないでしょうか。
 戦争がなくならないなら、その戦争すら信仰の枠組みの中で位置づけよう、というところが、イスラームの素晴らしく力強いところの一つだ、と個人的には感じています。
 
 最初にもお断りしましたが、こう書いたからといって、個別の問題で共有できることが何一つない、などと考えているわけでは全然ありません。別段敢えて喧嘩する必要もないですし、仲良くできるに越したことはありません。大いに共闘したら良いでしょう。
 ただまぁ、可愛い犬が「peace」と書かれたバンダナを巻いている写真を、嬉しそうにムスリムにかざしている善良なる市民の皆様を眺めていて、ちょっと遠い目になってしまった、というのは正直なところでしたが・・・。いやまぁ、どうでもいいことだし、誰も悪くはないんですけどね・・・。
 
 
追記:
 日本の右翼に「八紘一宇だから全部日本人だ! 同じ日本人を見殺しにするな!」と叫びパレスチナ支援をしている人がいる(!)、と聞きました。こんな右翼がわたしは大好きです。彼に話が通じるとは思えないし、イスラームについても、仮に視野の片隅くらいにあっても凄まじい誤解をしていそうですが、その誤解すら、ある意味「正しい誤解」なのではないか、と思えてしまいます。
 彼はゴリゴリの「ナショナリスト」なわけですが、そのゴリゴリぶりが弾けすぎて、期せずしてネーションを突破してしまっています。ネーションを越える経路というのは、意外とこんな場所にあるのかもしれないなぁ、と(ニヤニヤしながら)考えさせられました。