なぜという問いに答えられないところから信仰が始まるのではないか

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 日本人ムスリム/ムスリマというのは依然少数派だし、それ以前に世俗性の強いこの国では何らかの信仰を持っているというだけで目立つのかもしれないが、実際に生きていると「どうしてイスラーム教徒になったんですか」という直球な質問は意外とされない(まぁ、わたしの人付き合いが狭いからだろうけれど)。
 それでもやはり、「どうして」という問いはいつでも想定し得るし、自分でも聞かれる前から勝手に妄想することはよくある。
 しかし、そんなことを聞かれてもマトモな答えなどない。
 信仰を恋愛の類似について、何度も触れているが、「なぜ好きなの」と尋ねられて「背が高いから」「優しいから」などと答えるのは後付けの理屈であって、恋愛も信仰も向こうからやって来るものだろう。
 そもそも神様を選ぶという発想がおかしい。そういう考えはご利益宗教的な見方から来ているのだろうが、現世利得と「信心」を交換するようなものは信仰とは言えないだろう。もう全部神様が決めてしまっているのだ。だからデパートで服を選ぶように神様を取捨選択するというものではないし、「なぜイスラームなのか」などという問いは馬鹿げている。別に選んでいないし、選んだのは神様だから神様に聞いてください、と言いたくなる(もちろん、そんなヤヤコシイ意図で尋ねているわけではない、ということはわかっているし、こんな意地悪な答えはしないけれど)。
 
 これがもしボーンムスリムであれば、当たり前だが、「なぜイスラームなのか」などと問われることはない。
 面白いことに、逆にボーンムスリムが、ムスリムが少数派の国からやって来た「珍しいムスリム」に「なぜイスラームなのか」と問うことはある。というより、むしろ日本人よりこういう問いが好きだろう。
 素朴に考えて、「敢えて」イスラームを選んだ者の口からイスラームの素晴らしさが語られれば、彼らにとっては自尊心が満たされると解釈できる(それくらいのサービスはしても良いと思うけれど)。彼らから見れば、逆に「理由」があることが特典に映るのだろう。
繰り返すが、理由など問われても困るのだけれど、少なくとも「理由の想定される者」には、理由のない場所へと旅する特権があり、その点はより恵まれているかもしれない、と思うことがある。
 理由が無いにしても、理由の無さを発見することはできる。ボーンムスリムは理由の無さに恵まれているが、非ボーンムスリムは、理由の無さの発見を与えられている。
 そう、理由の無さの発見。これが非常に重要だ。
 理由を答えられているうちは、まだまだなのだ。
 しかし、理由の無さに到達するには、一通り理由について思考しないといけない。あたかも理神論を経由し荒々しい信仰へと回帰するように、信仰を信仰の外部の文脈から理性的に基礎づける、という運動自体は、一つの経路として評価されるべきだ。
 その道の果てに理由の無さに到達するのかというと、それも違って、道はずっと続いていて、いつまで経っても「悟りが開け」たりはしない。当たり前だ。ただ、歩いていて道に迷って、草むらのなかで神様を見つけて、びっくりして慌てて道に戻る、ということはある。落ち着いて「あれこそわたしの探していたもの」と思い、もう一度草むらに入ると、そこにはバッタしかいない。仕方ないので、また道を歩く。
 だから、この旅は、目的地自体には意味がないのだけれど、旅をしないと道に迷うこともできないので、とりあえず旅をする必要はある。
 そして、旅をするキッカケを豊富に与えられているという点では、非ボーンムスリムにも良いところがある。
 
 もちろん、これはわたしが勝手に考えていることにすぎない。このテクストに限った話ではないけれど、わたしは一介の信徒であって、別段何の権威も負っていない。だからまったくの勘違いかもしれないけれど、その勘違いも旅のうちなので、ぼちぼち歩いていく。
 理由を探しにでかけて、うっかり道端で眠ってしまえばいい。



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