『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』川上泰徳

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4000221914 イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで
川上 泰徳
岩波書店 2012-03-30

 カイロ大学への留学経験もあるジャーナリストによる、「イスラーム社会」ルポ。「アラブの春」絡みという形で出版されていますが、革命の話は主題ではなく、主にエジプトおよびパレスチナのムスリムたちの暮らしの素描から、イスラーム理解に迫ろうとする一冊です。
 ムスリムたちの普通の暮らしの中からイスラームを描こうとする書籍はいくつもありますが、美化されすぎていたり、むやみにイスラームの原理原則と暮らしの中の諸事を結びつけようとしたり、著者の中にある何らかの像が投影されているだけに見えるものもあります。しかし本書は、実に素直でかつ正確にイスラームを見つめようとして、ちょっと驚かされました。著者はムスリムではないと思うのですが、エジプトでの暮らしから感じたことなどが、驚くほどわたしの経験や印象と重なります。わたしが言いたかったことを代弁してくれているように感じられる箇所もあります。
 特に重要な箇所を、ちょっと長いのですが引用します。

 (・・・)イスラムのあり方を巡っては、宗教的に敬虔なイスラム主義者が、よりイスラム的存在と見られる傾向がある。しかしその一方で、イスラム教徒とは「イスラムを生きる人びとだ」と考える場合、世俗主義者として生きる人びとも、同様に「イスラムを生きる人びと」である。
 イスラム世界では世俗主義者はイスラム主義者との対比で登場することが多い。イスラム主義者を宗教的に敬虔な人びとと考え、世俗主義者を「非宗教的な人びと」と考えがちだが、ギターニがいうように世俗主義者は宗教や信仰を否定するわけではない。個人としては敬虔なイスラム教徒である世俗主義者もいるのである。しかし彼らは、政治や社会の領域ではイスラムのルールを実施することで問題が解決されるという考え方は取らない。「政教分離主義者」と呼ぶ方がふさわしいだろう。イスラム世界での世俗主義者は、日本人や欧米のキリスト教徒が考えるおうな宗教心から遠い火宗教的な世俗主義者とは区別して考える必要がある。取材をしていると、イスラム主義者とともに、世俗主義者の話を聞く機会も多いが、神の存在を信じ、イスラムの教えを生きる支えとしている点では両者はほとんど変わらないと感じる。
 イスラム主義者とは別の意味で、世俗主義者は、現代におけるイスラム教徒の生き方を示していると私は考えている。(・・・)イスラム世界で「世俗主義者」を標榜することは、世俗主義が当然となっている日本や欧米で世俗主義者であることとは全く異なる状況である。イスラム世界の世俗主義者を支えているものは何だろうか、と考える時、それはやはり信仰としてのイスラムだろう、という結論にならざるをえない。
 善きイスラム教徒とは、これまでに紹介してきたように、イスラムの教えから外れないように日々を送り、何か判断に迷うことがあれば宗教者のもとに意見を聞きに行くような人びとであろう。一方で、社会的に、文化的に、政治的に、自ら問題を見いだし、それを乗り越えていくような創造的で積極的な生き方をするイスラム教徒もいる。作家や映画監督などはまさにそのような人びとの筆頭にくるだろう。そのような人びとは、自分が生み出そうとしていることが、既存のイスラムと合致するかどうかを考えたり、事前にイスラム宗教者の意見を聞いたりするわけではない。その結果、活動の成果や発言が、伝統的なイスラム宗教者から「イスラムから逸脱している」と非難されることは珍しくない。(・・・)信仰としてのイスラムの特徴は、人間が神と向き合う直接性にある。そこから人間の精神的な自由が生まれてくる。宗教者やイスラム厳格派から「イスラムから逸脱している」と非難されても、批判された本人の信仰心がゆらぐわけではない。時には「イスラムの敵」として社会の非難を浴び、さらに過激派によって非難され、命を狙われたりすることさえあるが、世俗派の側も負けてはいない。そのような世俗派の強さもまたイスラムに由来するものである。
 さらに、飲酒したり、賭け事をしたりと、イスラムでは禁止されているタブーを破るような人びともまた「イスラムを生きる」という枠の外にあるわけではないように私には見える。イスラム教徒で酒を飲む人びとは信仰心がないのか、といえば、そうではない。イスラム教徒の酒飲みに話を聞くと、「ビールを一本飲むだけで、それ以上ではない。ビールを飲んでも酔うようなことはない」というような言い訳を聞くことが普通だ。敬虔なイスラム教徒なら「酒飲みの勝手な言い草」と一蹴するだろう。コーランでは「信仰する者よ、あなたがたが酔った時は、自分の言うことが理解できるようになるまで、礼拝に近づいてはならない」(婦人章)とある。酒飲みは、「自分の言うことが理解できる」のであれば、酒を飲んでも信仰心を忘れないことになると勝手に理解して、言い訳にする。ポイントは、言い訳の正当性ではなく、飲酒というタブーを犯しながら「信仰心を忘れてはいけない」と言い訳をするということである。多くの場合は、イスラムの教えを破る言い訳が、イスラムの枠の中にある
 (・・・)現代のエジプト版の自由恋愛な形ともいえる「オルフィー婚(非公式婚)」についても、伝統的な宗教者の間では、「若者たちがオルフィー婚と呼んでいるのは、イスラムが禁じる秘密婚である」という意見が一般的であるが、若者たちは結婚契約書を交わし、仲間を証人として立ち会わせて、イスラムでの結婚という形をとって、カップルになるのである。これを、結婚していない男女の交際を禁じているイスラムのルールを、形だけ偽装してごまかそうとするものとして切り捨てることもできる。しかし、あくまでイスラムに基づく結婚の契約という形をとるのは、やはりイスラムが若者たちの意識の中に根を張っているからである。
 カイロは人口一〇〇〇万人を超える、それもスラムとしか言えないような貧困地帯があちこちにある大都市であるが、驚くほど治安がいい。それは教育もあり、職業もあり、普通の市民生活を送っている人びとがイスラムの教えを守っているためというよりも、教育からドロップアウトした人びとややくざなど社会からはみ出し、疎外されたり、差別されたりしているような人びとさえも、簡単には犯罪に走らず、不完全ながらも、どこかでイスラムの教えによって自分を律しながら暮らしているためであるように私には思える。社会からドロップアウトしても、信仰からはドロップアウトしないということだろう。(下線引用者)

 似たようなことを何度かここでも書いていると思うのですが、非常に重要なことを言ってくれています。
 いわゆる「世俗主義者」(エジプトではこの言葉はほとんど罵倒語なので、「リベラル」など他の語が使われることが多い)が非宗教的な人びとでは全然ないこと、そしてとりわけ重要なことに、「あまり良くないムスリム」がイスラーム的?な「言い訳」をすること、つまり、たとえイスラームから外れるような行いをしてしまう場合でも、あくまでイスラームの枠の中で考えている、ということです。
 上で引かれているクルアーンのアーヤが、後に「上書き」されて飲酒が全面禁止されている(正確にはخمرが禁じられている)ことは、ムスリムなら誰でも知っていますし、こう言い訳している人も間違いなく知っています。でも、言い訳しないではいられない。ここで「飲酒の禁止なんて知ったことか!」と開き直ることも不可能ではないですし、多くの現代日本人であれば、そもそもの枠自体を放り出してしまう、という選択肢が当然のように浮かぶのでしょうが、そうはしない。ここが本当に大事です。
 なぜなら、今まで何度となく触れてきたことですが、信仰とは、そこで示された規範に正確に沿って生きていくことではなく、その枠組との相対的な距離感を失わずに生きることだからです。極端な話、規範に厳密に沿うことは二の次ですし、そんな人ばかりの世の中であるのはかえって危険で、ある意味「イスラーム的」でもありません1
 ちなみに、おそらく著者が感じている(わたしも感じている)こうした点の重要さを、エジプトのボーンムスリムたちに語ったとしたら、十中八九否定されるでしょう。彼らはことイスラームになると、大して学もなくても理想論を振りかざし、言葉の上では厳格主義者のように振る舞うのです(でも大抵は、自分の言葉どおりにはできていない)。これは、著者がここで取り上げたいようなイスラームの「広さ」というものが、彼らにはあまりにも当たり前になっていて気付くことができず、ボーンムスリムにとってのイスラームとは、教科書的にまとまったエッセンスの部分だと考えてしまっているからです。その字面通りのところだけ受け取っても、それはせいぜいイスラームの3分の1くらいで、そこだけ真似すると、日本人ムスリムにも時々見られる「ムスリムが少数派の地域の厳格ムスリム」を作り出すだけです2
 それはともかく、教科書的ではない「生きられる」広いイスラームというものを考える時、こういう「ダメなムスリム」の例からは非常に得るものが多いです。清水芳見さんの『アラブ・ムスリムの日常生活―ヨルダン村落滞在記』にも、酒飲みのムスリムの話が登場し、「俺は酒も飲むし、ダメなムスリムだ」とボヤいています。ダメだけれど、依然としてムスリムです。なぜなら彼は、それが「ダメ」であることを、イスラームの枠組みの中で考えているからです。酒は飲んでも、依然として(多分)アッラーを信じているのです。
 言うまでもなく、彼らは「ダメ」です。しかし、悪人正機ではないですが、「ダメ」な人こそイスラームの枠の中に入れられなければ、そんなものは信仰の道でも何でもないでしょう。逆に、イスラームの規範にすべからく従うような倫理的で品行方正な暮らしをしているけれど、神様のことなんて一ミリも信じていない人がいたとして、彼は「ムスリム」「信仰者」でしょうか。そういう日本人が時々いて、彼らのことを「ムスリムのようだ」「彼らこそ本当のムスリム」などというボーンムスリムがいますが、これはかなり滑稽な話で、言われる方にしても、勝手に信じてもいないイスラームの出汁にされて、かえって不名誉に感じるのではないかと思います(わたしなら感じます)。
 「ダメ」な人たちが「言い訳する」というのが、とても大切です。これらが「言い訳」に過ぎないのは、おそらくは本人が一番良くしっていて、本人が一番自分を責めています(責めていない人もいますが)。でも、言い訳する。開き直らない。ここが多分、イスラームの果て、最前線で、彼らこそ塹壕の中で戦っている兵士です。
 もちろん、人を殺して言い訳している人がいても、警察は問答無用でしょっぴいていくでしょうし、そうすべきでしょう。しかしわたしは警察ではないし、信仰者は警察である必要はありません。ここで見放された人が、苦しい言い訳しているのを、更に塹壕からたたき出すようなことをして何になるのでしょう。塹壕の中で小さくなっている彼らを守り、できれば安全な内地へと連れ帰らなくて、何がイスラームでしょうか。まぁ、あまりおせっかいに内地に引き戻そうとすると、慌てて塹壕から飛び出して撃ち殺されてしまうことも多いので、塹壕慣れしている人はそのままそっとしておいてあげた方が良いことも多いですが・・(わたしは塹壕で暮らすので放っておいて下さい)。
 本当のことを言えば、これは別にイスラームに限った話ではありません。キリストであれば「やましいことのない者だけ石を投げろ」とでも言うかもしれません。真理は常に周縁に浮かび上がります。
 多少話が飛びますが、「人権」という概念にしてもそうです。この言葉はサヨク臭くて好きではないのですが、人権を考えるなら、犯罪者の人権から考えないといけません。品行方正で地位もある市民の人権が守られているのは当然です(そうでない場合もありますが)。そこから弾かれ、もう人間の淵にギリギリとどまっている人たちの権利を考えるから、人権なのではないですか。
 何度か書きましたが、わたしがエジプトで得た経験で最も値打ちがあったのは、多くのムスリムたちが「けっこうダメ」だということです。「けっこうダメ」だけれど、言い訳しながらイスラームを生きている。それが非常に真っ当だと感じましたし、今でも感じています。

 余談ですが、「真理は常に周縁に宿る」ということについて、ある先輩が面白いことを語っていました。
 地方都市の郊外は大抵起伏の多い土地になっていて、峠があります。その峠道のクネクネには、ヤンキーたちが集い、火葬場があり、ゴミ焼却場があり、墓場があり、ラブホテルがあります。峠を攻めるヤンキーが事故死して、その場所に花がいけられていたりします。ある峠のコーナーで、ラブホテルと墓場が隣り合わせになっているのを示し、曰く「見ろ、生と死が隣り合わせや」。
 マージナルな「隠された」場所に真理があり、そこを周縁として切り取った小奇麗な「本質」など、カルトの養地に過ぎません。

関連:
けっこうダメなムスリムくらいで沢山だ
善いことをしても許してやろう

  1. 悪い善人など参照 []
  2. 少数派地域のムスリムが時に「過激化」するのには他にも様々な要因がありますが、ここでは触れません []



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