善悪以前に平等性と不可知性

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 「礼拝は死ぬ練習ではないのか」の補足ですが、一つ重要なポイントは「良いことと悪いこと」に囚われ過ぎるな、ということでしょう。
 「良いことと悪いこと」というのは確かにあって、とても重要なのですが(そしてこの重要性は、信仰の外側からでも理解できる)、もっと大事なのは「平等性」と「不可知性」でしょう。これらがないがしろにされて、「善悪」だけが取り上げられると、変な勘違いや傲慢さにつながる危ういものとなります。
 「善悪」は「平等性」と「不可知性」とセットでなければならないし、後者二つが善悪よりも先に来るべきだ、とわたしは考えています。
 わたしたちはアッラーの元で分け隔てないし、死が誰にでも等しく訪れ、それ以前に誰もが等しくこの不条理なテストに放りこまれているように、この世の諸事の中で様々な違いがあるように見えても、より根本的なところでは暴力的なまでの平等性を課せられています。これを見失ってはいけない、ということが大切なはずです。
 加えて、正にその平等性を保証する地位、つまりアッラーの視点というのは、わたしたちには知りようもないものです。ですから、逆説的にも、わたしたちは平等な筈なのに、平等にはどうしても見られない。見られないにも関わらず、平等だと信じるのは、ある領域がわたしたちには知りえず、知りえない領域の力に対して徹底的に謙虚でありただひれ伏す、ということと並行的です。
 「分からない」ということはとても大事です。イスラームを「イスラーム国」の法律みたいに勘違いしている人は、すぐ「お酒を飲んだらいけないんでしょう」とか「ヒジャーブは義務なのでしょう」という話をしたがりますが、百歩譲ってそれが現象として部分的な事実を捉えていたとしても、そこだけ見たら一知半解もよいところです。そういう脳天気な見方をする人は、別段イスラームや信仰と無縁な人ばかりでなく、ムスリムが多数派の地域で育ったムスリムにもいるのですが、善悪がいかに厳然としていて、かつ重要だったとしても、それをもって他人をカーフィル呼ばわりするのは悪行以上の大罪です。「あんたはアッラーかっ」とツッコまなければいけません。最終的なところは、わたしたちには分からないのです。
 信仰を道徳に還元するような愚行は、人間中心主義と個人と「社会」というモデルに引きずられたものかと思いますが、そこに目を奪われると、信仰は奇妙なものになっていくし、それ以前に人間としてあるべからざる姿に堕していくでしょう。