胡散臭い覚醒

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 宗教臭い文脈では「覚醒」という言い回しが使われることがしばしばありますが、これが鬱陶しくて仕方ありません。
 覚醒。実に胡散臭いです。一昔前のSF小説で超能力か何かに目覚める話のようです。
 大体、覚醒だの目覚めだの言って突然狂ったように動き出す人間は、ロクなことをやりません。恒久平和とか祖先の供養とか言いながら、浄水器でも売り歩いたりするのが関の山です。覚醒したいならシャブでも打って好きなだけ一人で目を覚まして頂きたい。
 覚醒なんかより、普通のことを普通に粛々とこなしていく方が、ずっと立派で難しいです。少なくともわたしにとって、イスラームは非常に「普通」なもので、変な石を有難がっても何もありませんよ、スペシャルなことは基本ありませんよ、淡々とやれ、というのが大事だと思っているので、覚醒だの何だの言われると、どうにも違和感があります。
 どちらかというと、正しい眠り方を教えてくれるものとして、信仰を重んじていきたい。その正しい眠り方を、覚醒と呼んでいる方がいらっしゃる、ということかもしれませんが、個人的には過覚醒で無駄に神経を張っている口なので、ダウナー的信仰実践から理解していきたいです。
 
 死を眠りと比する語らいは太古からありますが、覚醒もまた死に似るところがあり、「覚醒」してしまった人間がビルから飛び降りたりするのはよくある話です。
 「覚醒」して飛び降りるのは、基調低音的な不安と危うさの中で生きてきたタイプの人間で、言わば元々あった症候が陽性症状として弾けてしまったわけです。なぜ「覚醒」してしまうかと言えば、不安を一気に解消し辻褄の合う理屈が飛び出したと考えてしまうからで、翻せば、不安がその一つの理屈で霧散するような特効薬は、非常に危ないです。
 もちろん、不安は何とかしたいのですが、霧が晴れるように一気に取り除くのではなく、むしろ不整合で不可知な部分が残る形で、不安にアプローチしていく方が妥当な筈です。なぜなら、基調低音的不安のある部分は、「正当な」不安だからです。正当な不安まで一網打尽にするような「覚醒」は、シャブと一緒で、一瞬素晴らしく見えても、より大きな狂気を引き連れて戻ってくるだけでしょう。
 
 わたしたちには、何かが分かりません。
 分かるのが当たり前だと思い込むと、分からないことが不安になります。この思い込みを、思い込んでいると自覚できない程に深く静かに信じてしまうと、ある日突然すべてが「分かる」に反転する、「覚醒」と背中合わせの不安に世界が染め上がっていきます。
 だから、大切なのは、分かり得ないことを分かるかのように語ることではありません。そんな「覚醒」はシャブの売人だと思って追い払うべきです。
 分からないことを誰かが知っている。しかし、その誰かはなかなかお返事をくれない。返事をくれないからスネてしまうのではなく、信じて待つ。それが大事だと思っています。
 分からないから信じるのでしょう。分かりきったことなら、信じるもヘッタクレもありません。
 うとうとしながらお返事待っていると、五十年くらいあっという間にすぎて、インシャーアッラー、お返事が届く日がやって来るでしょう。
 
 ブルース・リーが、あるインタビューの中で「神を信じるか」と聞かれ、こう答えています。「わたしが信じるのは、眠りだ」。
 結局のところ彼が神様を信じていたのかどうかは知りませんが、「覚醒」よりは彼の答えの方が数段魅力的ですし、まだわたしにとってのイスラームには近いです。そのイスラームが「正しい」イスラームなのかは知りません。知っているという人の話も胡散臭いし、聞いていると大抵途中で寝るのでよく分かりません。